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太田

第六 · 단락 11 · 780522 73코마 R부터

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지명 3 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

系圖に曰く資國が父左衞門尉國綱の時、土御門院、國綱が賴政の曾孫たる事を聞召され、丹波國五箇の庄を賜る、其子資國、彼國太田郡に住しければ、太田と名乘と云々、按するに丹波に天田郡あつて、太田の郡はなし、覺束なし、永享記には太田備中守資清は、武州都築郡太田鄕の地頭なりといふ、太田となのる事累代太田の鄕の地頭職たりしゆゑの事にや、但し太田鄕も埼玉の郡にあり、都築郡にはあらず、不審、
永亨記に資長廿五歲の時、江戶の城を築くといふ、然れば康正二年の比にや、按ずるに僧靈彥得公等が靜勝軒江亭等の記は、文明五年に作れる所なり、
按ずるに、永祿七年鴻臺の軍の後、房州に落行きしなるべし、夏目が記を按ずるに、太田美濃守資政入道三樂は、道灌四代の嫡流にして、源六郞康資入道武庵は、道灌が舍弟の四代の孫なりと記せり、家の系圖を見るに、武庵も共に道灌の子孫たり、其家の系圖誤るべきにあらず、疑ふべきにあらず、去ながら三樂が、後に常陸にてまうけし子太田安房守といふは、三河守殿に仕へて、越前國にあり、彼れ太田の嫡流にして、賴政より道灌に至るまでの系圖、並ひに其家の重寶、悉く安房守が子孫の家に今に傳へたり、然れば夏目が記も據なしともいひ難きにや、暫く爰に記して、一說に備ふるのみ、
初め天正十八年關東へ移らせ玉ひし時、武庵が女、新六郞が妹於梶の局、年十三歲にて宮仕し、常に御側に侍らひて、日々に御寵愛淺からず、御娘一人をまうく、奧の伊達政宗の男忠宗に配せらるべしと仰合されしに、四つの御年かくれ玉ひしかば、於梶の局歎きて頭おろし、かの御跡を吊ひまゐらせんなど聞えしかば哀れに思召して慶長十六年御外孫なりける池田殿の御女を、かの局の養君となされて、忠宗に配せられ、また元和二年四月、水戶中納言賴房卿を彼の局の養君と定めらる、されば武庵入道を賴房卿の御外祖とも申なり、此年大御所かくれさせ玉ひしかば、於梶の局、頭おろし、其後賴房卿の御娘を養君とせらる、左大臣家彼の御娘とりて御子となし玉ひ、加賀の光高朝臣へ配せ玉ふこれ大姫君と申せし御事なり、寛永十一年六月尼御前、鎌倉扇谷に一宇の精舍を建て、英勝寺と號し、また賴房卿の御娘を養て、髮おろし參せ、彼の寺の住持職を望みければ、同十三年十一月廿二日御許しあり、十五年十一月廿日、相州三浦の地三百石かの寺に寄せらる、十八年の冬に、尼御前の病重しと聞召し、左大臣家自ら其病とはせ玉ひ、程なう失せ玉ひしかば、色々の御作善を行はせ玉ひけり、
其子資宗父に繼ぎ、上總の野田山本にて五百石の地を領す、駿河の御所に仕へ奉る、慶長十七年の冬、將軍家に附けられ、大坂前後の軍に從ひ、元和元年正月叙爵す、初め攝津守また采女正、後に備中守になる、左大臣家の御時、御小姓組番頭と成て、寛永九年四月七日、御書院番頭に遷り、此年十二月十四日、仰せ蒙つて、常に御側に在て事を執る、諸役人帳等には、少老職なりと載す、家の系圖には、しかは見えねども、松平伊豆守信綱阿部豊後守忠秋等六人と連署して事を執りしと云ふ、資宗初め慶長十七年の冬、所領加へ給ひしより、恩蒙ること五度に及びて、寛永十二年八月九日、上野國山川1の地を下し給ふ、爰に於て一万五千六百石なり、同き十五年春、肥前國嶋原の賊徒、平きし後、資宗御使承つて、彼國に向ふ、此年十一月五日、三河國西尾の城を給ふ、二万五千石職事悉く御免あつて、御奏者の事を承り、又散樂の事を兼ね司る、十八年、天下の大名の系圖を召されしに、資宗其事を掌る、正保二年正月十一日、遠江國濱松の城に移る、三万五千石資宗齡かたむきしかば、寛文十一年十二月十九日致仕して髮おろし、道顯と號す、
  1. — 지면 그대로. 太田資宗이 寛永12年에 받은 山川은 下総国 結城郡(山川藩)으로, 上野国이 아님
資宗世々に仕へ、夙夜の勞を重ねしかば、如何なる御恩にも預るべき身といひながらも、左大臣家、御代を知召しゝ初より、忽にかく身を立て家を興しける事、しかしながら其故ありとぞ世には申ける譬へば、大相國家の御臺所と申し奉るは、贈正二位大納言藤原長政卿の近江の淺井備前守御娘にて、此御腹にまうけさせ給ひし若君二人ありけり、太郞は竹千代殿、後に左大臣家の御事、二郞は國松殿と申し參らせ、駿河大納言殿と申せし御事なり、同し御子なりければ、御いとほしみの程いづれ優り劣りは、れはします1べき、高きも卑きも、親しきも、踈きも幼なきをば何となく、憐むは、世のならひなり、すゑの御子にてましましければ、御臺所は國松殿を御いとほしみありしを、よそ目には二郞殿を御世嗣にも立まほしく思召しぬるとぞ思ひける、竹千代殿の御乳母春日の局と聞えしは、明智光秀がおとな、齋藤内藏介とて、さるおそろしき武士の娘なり、女なれども心たけく謀有て、此事を深く妬ましく悔やしき事に思ひ込め、神佛に祈り、如何にもして、竹千代君の動きなく、御世嗣の君に立たせ玉はん事を謀る、こゝに資宗が伯母なりける於梶の局は、當時双なき駿河の御所の御寵愛なりければ、此人に附て、此事を訴ふ、大御所も初の程は、女のもの妬みして、かく喧く訴ふるにこそあれ、如何で、さる事やあるべきと思召さる、日をつみ月を重ね、訴ふる事共、誠しげに聞えければ、いや〱さもありなんには、天下の大事、此事にありぬとて、急き關東に下らせ玉ひ、其事となく、竹千代殿は天下の主にてわたらせ給ふとて、殊に恭ひ仰せければ、世嗣の君に、今は定らせ玉ふやうにぞ見えける、春日の局大に悅ひて、竹千代殿に、あなかしこ於梶の局の恩かまへて〱な忘れさせ玉ひそ、此人の執し申す事なかりしかば、君天下をば、國松君に取られさせ玉ふべかりし者をと、おさなくわたらせ給ひしより、口に付て云ひをしへまゐらせし事こそ、多からぬ御兄弟の御中は、隙出來させ玉ふべき端とはなりぬれ、されば國家の災多くは婦人より起るといふ事、思ひ合はせられて、うたてかりし事共なり、かゝりし後、左大臣家御代を知召されて、かの恩に酬ひまほしく思召けるに、於梶の局の所緣の人とては此資宗ばかりなれば斯くはなしたてさせ給ひしとぞきこえける、
  1. — 지면 그대로. 「おはしますべき」의 저본 오식으로 보임