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大田原

第九下 · 단락 5 · 780524 67코마 R부터

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인물 7 3 3 3 3 3 3 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

武家補任には、藤氏と見えたり、又世に傳ふる所は、大田原は平姓丹治氏と云ふ、平姓にして、丹治氏なること心得られず、按ずるに姓氏錄に、丹比宿禰は、火明命の三世の孫、天忍男命の後、武額赤命七世の孫、御殿宿禰の男色鳴、大鷦鷯の天皇の皇子瑞齒別尊、淡路の宮に生れ給ひし時、淡路の瑞井の水を、御湯に浴し奉る時に、虎杖花とびて、御湯の瓮の中に入る、色鳴宿禰、天津神のことほぎの言葉をあげて、多治比瑞齒別命と號し奉る、其後多治比部を、諸國に定て、皇子の湯沐の邑とし、則ち色鳴を以て宰として、丹比部の戶を領せしめ、因て丹比連と號し、終に姓とすと云へり、又丹比須布、出づる所、前に同し、又丹比連も、火明命より出づれども、これは命の男天香山命の後なり、姓氏錄に又曰く、多治眞人は、宣化天皇の皇子、加美惠波王の後也と、公卿補任新編纂圖等を合せ見るに、宣化天皇の皇子惠波皇子、其御子十市王、其御子多治比古王、名を以て姓として、多治比姓を賜へり、是れ左大臣島、中納言縣守、宮内卿水守、中納言廣成等の父祖なり、廣成多治比を改め、丹墀につくる、其子貞峯貞成、又改て多治比となす、貞成後に又丹墀となす、然れば、丹治多治比、稱する所は、同じけれども、由て出づる所は、同しからず、又丹比の宿禰も連も、共に火明命には出てたれども、別るゝ所、又異なり、丹治も多治比に通してあるし、多治比も、又丹墀に通して作る、某が聞きし所の如きは、廣成眞人の後武藏國に在りしを、其世にして武藏の丹の黨と云ひしなり、秩父丹五基房と云ふが孫にて、丹三大夫恒房が二男刑部亟實平1、榛澤郡安保の庄の地頭に補せられ、承久の時、宇治の合戰に討死す、彼が後、代々安保と稱す、貞治の頃、安保信濃、入道道誓が與黨によりて、所領の地失ふ、其後子孫下野國に起りし者を、大田原とは稱せしなり、
  1. — 지면 그대로. 承久의 난 宇治川 싸움에서 전사한 安保氏는 통설 安保刑部丞実光. 미확인
朝鮮の軍起りし時、催促に隨ひて、軍勢を率ゐ、肥前の名護屋に陣を取る、慶長五年の夏、德川殿奧の上杉中納言征伐の爲に、御下向あつて、先づ此大田原の城に、御陣を移さるべきに定る、斯る所に、上方にも兵起りしかば、結城殿を、奧方の討手の大將として、數多の軍勢を、下野國に止められ、引返して上り給ひぬ抑この大田原の城と申すは、敵の境に交りて、大事の要害なりければ、服部石見守を御使として、那須の人々、馳せ加りて、是を守る、德川殿、路より晴清に御消息を賜り、殊に其軍忠を勵さる、去れども、敵この邊りには寄せ來らず九月半、育王野の城に、敵向ふと聞えしかば、晴清大關等と共に、後卷せんとて、馳せ向ふ、育王野下總守資信、嫡子又十郞資重等、城より討て出て、寄せあふて散々に戰ひ、勝軍しぬと聞て、路より取て返す、關が原の戰、上方の軍敗れければ、終に此所の合戰は、なかりけり、大坂前後の戰に、將軍家の先陣して、首七十を切て献る、其子備前守政清、家を繼く、晴清卒せし年月、未た知らず、政清初め左兵衞と云ふ寬文元年三月五日、五十歲にて卒す、嫡子山城守高清、家を繼き、一万千四百石二男長次郞某に、所領を分ち給ふ、千石高清延寶五年九月廿九日致仕し、其子備前守長清、家を讓らる、實は織田小十郞が嫡子なり、高清嗣なくして養て子とせり、是より平姓と成て、丹比の種姓は、絕えたりしにや、大田原織田、元より外戚に就て親しかりければなり、