武藏守源玆矩は、宇多天皇の御後、佐々木源三秀義が五男五郞義清が十五代の孫とぞ聞えける、初め義清、出雲隱岐等の地頭職になされて、隱岐守に任し、其子孫代々、使の宣旨を蒙り、地頭職を賜りて、出雲國に居住す、義清六代の孫政道、慈照院の公方義政公の諱字を賜り、其後茲矩が祖父惟宗が世に當りて、出雲國に在ても、國人七人の內にかぞへられ、父永綱が代に及て、當國須佐の城にぞ住しける、彼等が一族尼子伊豫守經久、其身は雲州富田の庄に在りながら、あたりの國々七箇國まで打隨へ、威を山陰山陽の地を震ひしに及ては、彼等又自ら彼家の被官とこそはなりてけれ、伊豫守經久が男右衞門佐晴久が時に、毛利大膳大夫元就、安藝國に起りて、晴久と地を爭ふこと凡七年、永祿十一年の春1、晴久終に戰ひ負て、尼子が家亡ひしかば、玆矩其頃は新十郞と云本國を云て織田殿に見參し、尼子が家、再ひ興さんことを謀る、事終に叶はずして、又織田殿に參り、羽柴筑前守秀吉の手に屬し、因幡國鹿野の城を守る、織田殿失せ給ひ、秀吉天下を知り給ひし後、鹿野の城を賜ひぬ、是より後、關白の向はせ給ふ程の軍に、隨ひ參らせずと云ふことなく、武勇の譽、世に傳ふる所、少からず、何れの時にかありけん、玆矩が年來の武功を賞せられて、因幡國半を賜るべき由を仰せ下さる、玆矩畏り承て、玆矩日本の中に望み思ふ國なし、あはれ御許を蒙りて、琉球を賜り、討ち隨ひ候はゞやと申ければ關白殿、持ち給ひし御團扇に、自ら龜井琉球介と書て、賜ひしかば、玆矩大に悅ひ、急き兵船を揃へ、軍勢を催し、馬物具兵粮秣とり載て、南をさして押出す、既に彼土に至らんとせしに、惡風忽ち吹き起て、逆浪天を浸しければ、船ども散々になつて、吹き戾され、終に本意は遂けざれども、玆矩が大膽を、殿下大に感し給ふこと斜ならず、慶長五年の初、德川殿に隨ひて、奧に下る、上方の軍又起りしかば、引返して、美濃國に戰ひ、關が原の軍終りて後、玆矩一勢馳せ向て、石見伯耆因幡但馬の城々、或は攻め、或は降し、山陰の地、悉くに平ぐ、其功これ莫大なりとて、頓て勸賞を行はるゝこと少からず、本領一万三千石、三万石を加へられ、四万三千石を領す其子息豐前守政矩、父に繼く
- 永祿十一年の春 — 지면 그대로. 尼子氏의 月山富田城 개성은 통설 永禄9.11(1566)이고 당주는 義久. 晴久는 永禄3(1561) 몰. 본서 f094.p004도 永祿九年으로 적음