左近大夫藤原貞泰は、遠江守光泰が男也、光泰初め織田殿の家人、作內と申しき元龜元年の春、木村生駒前野等と同しく羽柴藤吉秀吉の手に屬せらる、これより秀吉世の事を知り給ふに至て、是處彼處の戰功、夙夜奉公の勞を積てければ、天正十二年近江國高島の城を賜ひ、叙爵して遠江守に任し、同き十八年甲斐國悉く賜ひ領しぬ、廿四万石去れば殿下年來の御家人にて、御覺他に異なりし故、斯る大名にもなし立て給ひ、時の榮世の華なりしかど、いつしか讒人の爲に申し碍へられて、御氣色宜しからず、文祿の初め朝鮮討たるべき事起て、光泰も軍勢引具して、彼國に打渡り、是處彼處の軍し、終に陣中にて空しくなりぬ、凡そ朝鮮の軍中にて死したる人々、多くは所領減ぜられし例なれば、其子左近大夫僅に美濃國黑野と云ふ所を賜りぬ、四万石幾程なく太閤も薨し給ひ慶長五年の秋德川殿、奧の上杉を追討の爲に御下向あり、貞泰も當國岐阜中納言秀信に隨ひ、馳せ下るべき由を申て、既に打立たんとせし所に、石田三成が謀にて、諸大名かり催し、德川殿傾け參らせんとす、秀信忽に心變して石田に組し、當國の人々悉く是に同ず、貞泰父が無實の讒に逢うたるも、此三成が所爲なりと聞てければ、如何にもして東國の御方して、其仇を報はんと思ひしかど、僅なる勢を以ては叶ふべからず、兎やせん角やせましと思ふ內に、德川殿の先陣、海道をさして攻め上ると聞えて、尾張國犬山の城は、大事の所なればとて、餘多の勢を加へ守る、貞泰も催促に隨ひ心にもあらで趣く、御發向を待て御方に馳せ參るべき由を、潜に關東に申けるに、兼て貞泰が御方に二心なき事は能く知らせ給ひしに因て、人質をも召さず起請文參らすべしとも仰せられず、唯其地に在て待まゐらせよとのみ仰せ下さる、貞泰大に悅ひ忍ひ〱に東國の御方せん人、相語らひ、德川殿美濃國に討入らせ給ふと聞て、關長門守一政也竹中源助重門の人々を打連れ、犬山を去て御陣に馳せ加る、城は攻めらるゝにも及はず落にけり、關が原の合戰に先陣に加つて軍す、慶長十五年七月十九日、伯耆國米子の城を賜て移る加恩の事ありしにや聞かず大坂の兵起りしには馳上て城を攻む、再ひ軍起しには、軍散して後に參る、これ大坂兩陣供奉帳に見えし所也政事錄の首帳にも獻りし首見えず然るに一書に首二つ獻りし由記す不審元和三年所領加へられ、伊豫國大洲の城に移る、文田子とも云六万石を領す同き九年五月廿二日四十四歲にて卒し、子息等に所領分ち賜ふ、嫡子出羽守泰興家を繼く、五万石其嫡子美作守泰義、先立て卒しければ、延寶二年二月廿五日致仕せし時、嫡孫に家を讓り、五万石子息等にも所領を分ち與ふ、二男平八郞泰亮、三男左兵衞泰成には、開發田千五百石宛入道の後月窓と號し同き五年十二月十二日六十八歲にして卒す、遠江守泰經は、美作守泰義が子、祖父出羽守泰興に家を讓らる、