備前守景友入道道阿彌は、伴の大納言善男の末孫とぞ聞えける、
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山岡
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 山岡景友 19徳川家康 8伴善男 6甲賀佐左衛門(景友弟) 4山岡景本 3大伴継人 2伴国道 2毛牧景広 2山岡信濃守(景友祖) 2山岡景隆 2山岡景佐 2福島正頼 2氏家行広 2氏家行継 2山岡景以 2大伴古麻呂 1仁明天皇 1文徳天皇 1清和天皇 1伴佐世(善男子) 1景行天皇 1伴資兼 1源義家 1清原武衡 1
지명 上方 4佐渡国 3山城伏見城 3近江瀬田城 2陸奥国会津 2伊勢長島城 2伊豆国 1京都 1奥州 1近江国大原 1近江国毛牧 1近江国膳所 1近江石山寺 1和泉国堺 1三河国 1近江瀬田橋 1近江国信楽 1伊賀国 1伊賀国御斎峠 1摂津国大坂 1下野国小山 1関東 1伊勢国大鳥居 1伊勢桑名城 1
公卿補任を按ずるに大納言伴宿禰善男は、正四位下古麻呂が曾孫、從五位下左少辨繼人が孫、參議右大辨從四位上勘解由長官按察使國道が五男たり、仁明文德清和三代の朝廷に仕へ、貞觀八年九月廿三日罪ありて伊豆國に配流せられ同き十年に薨す、然るに江談抄を見るに、善男元は佐渡國に土民たりしといふ事を精しくしるせり、いぶかし、按ずるに國道は父繼人の事に罪せられて、佐渡の國に流されて、二十四年の後に恩赦蒙りて京に入り、再ひ左中辨從四位下に任ずと見ゆ、されば善男が佐渡の民たりしと云ふも、さもあらんかし、善男が子佐世といひし由江談抄に見えたり、〇大伴氏は姓氏錄を按ずるに、高皇產靈尊の五世の孫天押日命の後より出たり、然るに世には景行天皇の御末より出でたりといふ、不審、
大納言善男九代の孫伴四郞資兼が後資兼は源義家朝臣に從ひ、奧の武衡家衡を亡せし人なり伴資業、近江の國甲賀郡大原に住居しけり、太郞景廣が時に至て同國毛牧に住しければ、毛牧太郞といふ、其後山岡信濃守、勢多の城にあり、信濃守が時城燒けて系圖失せぬ、何れの代より、山岡と名のりしにや、知れずといふなり其子因幡守その子景猶、四人の男あり、嫡男山岡美作守景隆家を繼ぎて勢多の城にあり、二男對馬守景佐、同國膳所に住す、三男は備前守景友なり、四男は僧になつて石山世尊寺の僧侶たり、南庵といひしと也其後還俗して甲賀佐左衞門尉と名乘てけり、天正十年六月織田殿討たれ給ひ、德川殿和泉國堺の浦より三河國に歸り給ひし時、景隆景佐景友三人の兄弟、明智光秀が催促に隨はず勢田の橋燒き落し、德川殿の御供して信樂の邊より伊賀國の界伽の峠といふ所まで送り奉りて路次の警衞怠らず、されば、德川殿も彼等兄弟の輩をば、さる賴しき人に思召し、其後兄弟豐臣家に隨ひ參らせ、備前守景友、慶長の初め入道して宮内卿法印になされ、道阿彌と號しけり以上或記に見えしまゝに記す太閤薨し給ひ大坂の奉行等が、德川殿失ひ參らせんと謀りし度每に、入道いつも德川殿の御館をぞ守りける、慶長五年奧の會津に向はせ給ひし時、入道は御供して馳せ下る、舍弟甲賀佐左衞門尉は伏見の城に留りて上方の軍起りし時、城中にて討死す、斯て上方の軍起りぬと聞えて、德川殿下野の國小山の御陣に、東國下向の大名を召されて、人々の思ふ所を尋させ給ひしに道阿彌入道、岡江雪齋二人ぞ仰をば傳へける、人々皆味方に組みし參らすべしと申す、さらば上方に向つて合戰あるべしとて、まづ先陣の人々を差し向けらる、入道同く馳せ上り福嶋掃部頭正賴が加勢として、伊勢國長嶋の城に立籠て原田隱岐守胤房1と戰ふ、九月十六日正賴が舍兄左衞門大夫正則が使者來て、昨日の戰に上方の軍勢敗れぬと聞て、入道手勢三百七十餘人を引具して、長嶋の城を出て川舟に取乘り、おのが領大鳥居に差懸る、長束大藏大輔正家が負け軍して落行くに行逢ひ、散々に討ち散し首百餘きり取て、又桑名の城に押寄せ、城中に使たて氏家兄弟を降人となし、內膳正志摩守城受取て番の兵を籠め置く、神戶の城に向ひ羽柴下總守雄利が城を取て、城には番の兵を留め龜山の城に向ふ、岡本下野守宗憲も降參す、爰にも兵分ちて城守らせ、十月六日伏見の城に參て兩御所の見參に入る、入道が振舞を感じ給ふこと大方ならず、同き八年十月三日大御所、入道が伏見の家に渡らせ給ひ、終日の饗宴あり、此日入道が養子新太郞景本、生年八歲に成けるを見參に入る、常陸古渡の地を入道にぞたぶたりける、一万石明れば九年十二月廿日入道六十二歲にして卒す、新太郞景本未だ幼なかりしかば、景本が實父同主計頭景以に、入道が所領の半を賜て其跡を繼がせらる、五千石を領す
- 原田隱岐守胤房 — 지면 그대로. 慶長5年 西軍의 原隠岐守勝胤을 가리킨 것일 가능성이 있으나 長嶋城 공방 참여와 「原田」「胤房」 표기는 미확인