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北條〔福嶋〕

第十一 · 단락 4 · 780525 75코마 L부터

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지명 5 3 3 3 3 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

左衛門大夫平氏勝は、故左衞門大夫綱成が孫なり、綱成元は福島と名乘つて父祖累代駿河國今川宗徒の被官、遠江の國高天神の城にあり、綱成が父福島上總介正成、甲斐の武田と戰はんと西郡に發向し、信虎が信玄の父ために討たる綱成幼けなくして父に後れ相摸國に落ち來り、北條左京大夫氏康に仕ふ、綱成いまだ童なりし時容顏殊に麗しく又さる者の子なりければ、氏康の寵愛淺からず、廿二歲の時髻とり上げさせ名氏賜つて北條左衞門大夫と召さる、家の系圖には綱成氏康の舍弟の由見ゆ覺束なし武藏國河越の城は大事の所にあるなれば、氏康が身を分ちてこそ守らしめゝとて、この左衞門大夫綱成をぞ籠められける、管領上杉の憲政、古河殿を公方晴氏かたらひ參らせて、東國の軍勢八万餘騎を引具して河越の城に押寄す、相摸國の通路さし塞ること凡そ二年、城中の兵粮盡きて餓死せんとす、綱成ちつとも痹まず諸卒を下知して防き戰ひし程に、落ちんず氣色はなかりけり、天文十五年四月廿日の日に至て氏康其勢八千人、河越の城に後卷きし寄手の陣に押寄せ、竪さま橫さま切つて廻る、綱成かくと見るよりも三千人を引具して、城戶押開き切て出づ敵散々に打成されて上杉終に亡びてけり、
甲陽軍鑑を按ずるに、綱成、主の氏康と同年にぞありける、綱成童なりし時主の寵を受けて天文五年生年廿二にして元服し、主の氏賜て北條左衞門大夫と申す、綱成が弟福島辨千代丸、この年十六歲是も氏康の寵を受く、綱成氏康の命蒙て武藏の河越の城を守り、上杉に背きし侍五百人を召出し、己が此度賜りたる所領、悉くに分ち與へ、人質一々に取りて城中に込む、天文七年の秋綱成廿四歲の時、上杉が八万騎押寄せて河越の城を攻む、氏康謀を運らして後卷せんとす、因て謀を城中に通ぜんとするに寄手の多勢、城の四面を打圍みて鳥ならでは通ふべしとも見えず、綱成が弟辨千代丸此年十八歲になりしが、氏康に申けるは味方の謀、城中に通じ給はん事いかにも叶ふべしとも覺えず、かたきの中に立ち紛れん便あれども雜人原に御文賜ひて城中に入られんには、其御文奪はるゝ事もや候はん、又侍して仰せられんにも捕はれて問ひ落さるゝ事も候ひなん、あつはれ某御使を承て候はんには、たとへ敵の爲に捕はれて、いかなる拷間にあひぬとも、問ひ落さるゝ事は候まじ、是にて打死仕らんも、かたきの中に捕はれて責め殺されて候はんも、君の御ため同じく死せん命なれば惜む所は候はず、若し事故なく彼の城に入て仰を傳へ候はんは、これにて討死したらんより、忠功は猶優りぬとこそ存ずれとて、暇乞ひし逸物の馬に打乘り舍人をも具せず、たゝ一騎かたきの中を打渉りて、やす〱と城中にこそ入てけれ、去程に此夜七月十五日子の刻ばかりに、氏康上杉が陣に切て入り立さま横さま切て廻る、寄手討たるゝもの一万六千餘人手負ふ者一万餘人、さん〱に打なされて落ち失せぬ、氏康が八千人手負ひ討たるゝ者合せて百餘人には過きず、氏康かねて謀りし事なれば、急き軍勢を集めて松山の城にぞ引籠る、案の如く上杉が侍大將等、討ち漏されたる軍兵を集て、氏康と戰はんと取て返す、氏康既に松山の城に入てけりと聞て、押寄せてや戰ふ又此所に陣して敵を待ちてや戰ふと長詮議に時を移す、明れば十六日左衞門大夫綱成、城中の兵一騎も殘さず引具して打て出づ、打集つたる上杉が軍勢を、散々に駈け破つて松山の城にぞ入りにける、世に傳ふる河越の夜軍是なりけり、○又北條の記並に宇佐美が記せし所を按ずるに、天文六年七月十五日の夜、河越の軍と申すは上杉五郞朝定と北條左京大夫氏綱との戰ひなり同十五年四月廿日の夜河越の軍は、古河の公方晴氏、上杉の管領憲政と共に城を攻めしこと二年の後に、氏綱の子息左京大夫氏康後卷きして戰ひし所也と云々、甲陽軍鑑のしるす所、尤も詳かなれとも、兩說大に異なれば、今暫く北條の記に隨ひて記るす、
此後綱成、相摸國甘繩の城を領しければ甘繩左衞門大夫とも申す、子息氏繁成人して左衞門大夫を讓り、我身は上總介にぞなつてける、綱成およそ戰にあぶ事小軍は數を知らず大軍は凡そ三十餘度、向ふ所破らずといふ事なく、綱成が差せし旗、黃なる絹に墨にて八幡の二字かきたれば、黃八幡とも名つけたり、年積て七十三、天正十五年にぞ死してける、其子左衞門大夫氏繁、父に劣らぬ剛の者、十六歲にて軍始め自ら敵十三騎を切て落す、此處彼處の戰に其高名數を知らず、是れも子息氏勝に左衞門大夫讓りて自らは常陸介になり、年僅かに四十三、天正六年父綱成に先立ちて飯沼の城に死す、氏繁が男左衞門大夫氏勝、祖父に繼き一方の大將を給りて、是處彼處に戰ふこと十餘年、一度も不覺の名を取らず天正十八年の春豐臣太閤、關東に向ひ給ひし時、左衞門大夫氏勝は氏政父子の命を受けて松田右兵衞大夫助けんとて、間宮豐前守朝倉能登守等と同しく山中の城に籠る、三月廿九日寄手の多勢、まづ山中の城に押寄て攻め戰ふ、城中の兵多く討たれて城忽に落つ、氏綱希有に逃れ出で夜に入て道失ひ既に腹きつて死せんとす、舍弟新八郞、木村三河守堀內日向守等が爲に止められ、さらば我が城に引返し寄手を待て尋常に討死し、今日の耻を雪がんとて主從僅か十八人、皆髻切て甘繩の城に入てけり、氏政氏直此由を聞て栗田の何某を使として、抑も山中の城落されし事、氏勝一人が武勇の足らざるにあらず、これ併しながら當家の運傾かんするによる所か、氏勝早く此城に馳せ參り、猶當家の運開かるべき謀を助け參らすべしとぞ云はせらる、氏勝畏り承り候へども、氏勝今何の面目かあつて、再ひ見參には入り候べき、たゞ御許を蒙り此城を守て討死仕るべきにて候と申切て終に參らず、氏政父子、讒人の申す旨につき、扨はこれも心變りしてけりと怒り給へば、氏勝また大に怨む、この氏勝は昔より德川殿の知召されし者なれば、御使を給つて、都築彌左衞門松下三郞右衞門關東の城々次第次第に攻め落され、今は小田原の城落ちん事遠きにあらず、速に降人となつて參られんには、家康いかにも命をば申し乞うて參らせんとぞ仰せける、氏勝此由を聞て德川殿の御情、死しても如何で忘れ參らすべき、去ながら既に討死を思ひ定めて候ふ上は、仰に隨ふべしとも覺えずとて御使をば返してけり、御使三度に及びし後、四月廿一日甘繩の城をば本多榊原井伊の人々に下げ渡して德川殿の御陣にぞ參りたる、北條程なく亡びし後、德川殿の御家人になされ上總國岩富1の地を下し給ふ、一万石關が原の戰に三河國岡崎の城を守り、慶長十六年五十二歲にして卒す氏勝初め保科彈正忠正直が三男養うて家繼かす、出羽守氏重とぞ申ける大御所の御外甥也大坂前後の戰に氏重將軍家の先陣打つて馳せ向ひ、寬永十二年六月廿一日大番の頭となされ、同き十七年九月十一日下總國關宿の城を給り、二万二千石○一說に寛永十四年に駿河國久野より關宿に移ると云ふ不審正保元年正月廿一日駿河國田中の城に移り、二万五千石慶安元年九月十一日遠江國掛川の城に移る、三万石万治元年十月朔日六十四歲にて卒す、世嗣なければ家たえたり、
  1. — 지면 그대로. 北条氏勝이 받은 岩富는 下総国 印旛郡이다
北條の系圖を見るに、一に曰く常陸介氏繁、主の氏康の婿になされて多くの子を設く、嫡子左衞門大夫氏勝、二男新八郞三男千葉善九郞、千葉の家を繼く、四男新藏繁廣、殘る二人は女子なり一に曰く左衞門大夫氏勝が子新藏繁廣、其子安房守氏長、其子孫七郞氏平と云々、按するに左衛門大夫氏勝、慶長十六年五十二歲にて卒し、新藏繁廣慶長七年三十九歲にて卒す、然らば繁廣は氏勝に後れて生るゝ事四年の後なり、前の說に從ふべし、