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菅沼

第十一 · 단락 12 · 780525 72코마 L부터

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或記に土岐改めて菅沼と名乘りし事は、正長元年南方小倉殿密かに嵯峨を御立出ありて、伊勢國に趣き國司の北畠を賴ませ給ひて軍おこさせ給ふ、その頃三河國の住人菅沼信濃守俊治、足利殿を恨むる事ありしかば、小倉殿の御方に馳せ參る、小倉殿ほどなく武家と御中たいらがせ給ひて再ひ嵯峨に返らせ給ひしかば、菅沼も本國に歸りて忍ひ居たり、いつまで斯てはあるべきとて、國人等を催して兵を起す、土岐大膳大夫興安幷に富永伯耆守氏久、士岐孫太郞1賴房舍弟新二郞光貞、土岐新三郞定直等、追討の御使承て三河の國菅沼に發向すこゝに土岐新三郞定直は搦手に向ひしが、信濃守俊治と戰ひて自ら其首を取てけり、俊治が舍弟新六郞俊榮は、元より將軍家に近侍して、兄が謀反に組みせねば御免を蒙りて元の如く召仕はる、此度の勸賞として土岐新三郞定直、菅沼が所領を賜りし程に、土岐あらためて菅沼とぞ名のりけると云々、此說尤も詳かなり系圖には新三郞と計り載せて名をば失ふ、定直といひしと見えき、されど系圖に見えざる事なれば、或記の說もいかゞあるべき、
  1. — 지면 그대로. 「土岐」의 저본 오식으로 보임
定盈が祖父新八郞其名つたはらず同國野田の城に移り住む、定盈父祖に繼き野田の城に住して今川に屬す、永祿の初め今川上總介氏眞德川殿と中たがひし、當國の住人、德川殿の御方に參る者多し、定盈又德川殿に組みし參らす、氏眞安からぬ事に思ひ、夜に乘して野田の城を襲ふ、定盈無勢に多勢叶ひ難く、一方打破て岡崎の城に參る、氏眞頓て駿河の國人等して城を守らす、定盈程なく攻落して還り住む、同き八年當國の住人、悉皆德川殿に隨ひ參らせ、又遠江國を併せられん事を議せらる、定盈謀り申す旨ありて、同き十一年の冬に至り、井伊谷刑部等の城を取てまゐらす、德川殿悅ばせ給ふ事大方ならず、頓て其賞行はれ十二月十二日遠江國に在る所の本領悉く定盈にぞ賜りける河合の郷幷に高部等の地也
元龜元年の夏姉川の合戰には、野田の城に留り守る、同き三年十月甲斐の武田大膳大夫入道信玄、德川殿に中たがひして遠江國に發向し、二股の城を攻め落す、東三河の國人等忽に心變して悉くに武田に與みす、定盈同次郞右衞門尉、二人ばかりぞ日頃の契を違へずして、德川殿の御爲に野田の城に立籠る、去程に十二月廿二日味方が原の合戰、武田入道うち勝て刑部に陣を取り、明れば天正元年正月十一日、野田の城に押寄せたり、德川殿かねてより定盈が加勢として、松平與一郞忠正を差向けらる、されども城中無勢にして籠る所の軍兵四百人には過ざりけり、此城究竟の要害たやすう落さるべしとも見えず、入道謀事をめぐらし、地を穿ちて城中にある所の井の水悉くに切り落しければ、味方俄かに水乏しく成て、士卒悉くに渴して死せんとす、定盈次郞右衞門尉と共に自ら首刎ねて、士卒の命に代らんと謀つて、かたきの陣に使たてゝ斯くと告げ、二人城を出で首はねんとせし處を、入道とかくたばかつて生捕にぞしたりける、山縣三郞兵衞尉昌景、預人となつて郡内の地にゐて行き、今は味方に參られん事こそあらまほしけれと、樣々に敎訓せしかども二人承引の氣色もなし、入道さらば計らふべき樣ありとて、德川殿に使者を參らせて、それに候ふ東三河の國人等が人質賜らんには、野田の城にて生捕つたる二人の者をも、返し參らすべきにて候ふと云はせたり、さらば賜はらんと答へ給ひ、作手段峯長篠の兵共が人質と、取替させ給ひしかば、定盈等は事故なくぞ歸りてける、
此時德川殿は野田の後卷あるべしとて、速に濱松の城を出させ給ひ、笠取山に陣取り給ひ、信長の加勢を待たせ給ふに、味方原の戰に味方利なかりしと聞て、信長とかく躊躇ひ給ひし內に、城は落てけり、信玄入道野田の城攻めし中より、忽に違例して本國に趣き、四月十二日に卒しぬ、○或記に曰く野田の城に籠りし兵に、伊勢の芳休と云ひしは、かくれなき尺八の上手なりけり、或夜櫓の上にしてこれを吹く、寄手の陣中より人出でゝ聞くとぞ見へし、闇の夜なれば物の色目も見えわかず、芳休怪しと思ひて其後夜毎々々に櫓に登りて尺八を吹く、夜更けてのち人むれ來て聞き、吹き終りぬれば聞人も歸る氣色なりけり、いつも人の必むれ集ると見えし所を、晝の程にとくと見置きて、鐵炮を架けて矢つぼ能く極め置いて、その夜また櫓に登りて吹く、案の如く人また群がり來て聽くと見えし所を、鐵炮を放しけるに、いと物靜かなり、さては此程人來りぬと見えしは、我ひが目にやある又思ふ所に中らざりしにやと、窺ひ〱尺八をば絕えず吹きしに、やゝあつて後密かに引いて歸るなりけり、今夜はいまだ吹はてぬに歸るは、一定矢頃は違はざりけりと思ひしに後に聞けば、信玄入道尺八にめでゝ夜每に出て聞きしに、芳休が放ちし鐵炮、人もこそ多きに、かの入道に中りしは運のきはめと覺えたれ、大事の要所にや中りけん、程なく死しけると云ふ、此事にこそあるらめ、甲陽軍鑑に入道の手負たるなど云ふはあらぬ事なりと事々しうあらかひ置きたり、おぼろけなる事なれば、手負ひぬといふも、一定とは思はねど、世に傳ふることなれば、こゝに記し置きぬ、
幾程なくて武田入道死してければ、定盈また野田の城に還り住む、武田入道の男四郞勝賴、又參河國に向ひて野田城を攻めんとす山家三方の輩案內せしなり定盈城中より切て出で散々に戰ひて、敵あまた討取り手の者又討たれし事少からず、長篠の戰に鳶巢の城を攻め落し、武田亡びて甲斐國に向ひ給ひし時、此處彼處に戰ひ長湫の戰には我身は當國要害の地を守らせられ、軍勢引わけて御陣に參らす、小田原の御陣に隨ひ、關東に移らせ給ひし時、上野國阿布の城、を賜ふ一万石
按するに定盈が功名の事、天正三年正月1長篠の合戰に、酒井左衞門尉忠次に從ひ、鳶巢の要害攻め落せしより後の事は、何れの記にも、いまだ見えず猶尋ぬべきにや
  1. — 지면 그대로. 長篠 전투와 鳶巣山 요해 공략은 天正3年 5月(21日)이다
慶長五年の秋東西の軍一時に起る、定盈御跡に留りて西城を守る西城留守居といふ子息志摩守定仍、海道より向ひて駿河の國府興國寺等の城を守る、明れば六年定盈伊勢國長嶋の城賜て移る、二万石同き九年七月十八日六十三歲にて卒す、嫡子志摩守定仍父に繼ぎ、明る十年十月廿五日三十歲にして世を早うす、男子なければ十一年十二月定仍が舍弟左近定芳を、兄が世嗣となされて長嶋の城を賜はる
慶長十九年二月廿七日叙爵して織部正に任す、大坂前後の戰に隨ひ首九十切て獻る一說に九十八元和六年近江國膳所の城に移る三万石寛永十一年閏七月丹波國龜山の城に移る、四万石又は四万四千石餘とも云ふ也定芳歲五十五歲にして卒す、卒せし年月未だ詳ならず、正保四年三月卒す云ふ不審一說嫡子左近將監定昭家を繼ぎ、三万八千石餘と云ふ舍弟等に所領分ちし故にや定かならず幾程なくて卒し、男子なければ家絕えぬ、