家一覧 › 第十一 › f160
菅沼
この家によく出る人物・地名
人物 菅沼定盈 20武田晴信 12徳川家康 11菅沼定直 7菅沼俊治 4今川氏真 4菅沼定芳 4菅沼定昭 4小倉宮聖承 3村松芳休 3菅沼定仍 3足利義教 2菅沼次郎右衛門(定盈同族) 2織田信長 2菅沼定城 2北畠満雅 1土岐興安 1富永氏久 1土岐頼房(孫太郎) 1土岐光貞 1菅沼俊栄 1菅沼新八郎(定盈祖父) 1菅沼家臣菅沼又左衛門 1松平忠正 1
地名 三河野田城 12遠江国 3三河国長篠 3三河国菅沼 2山城国嵯峨 2三河国 2遠江井伊谷城 2遠江刑部城 2駿河国府中 2遠江掛川城 2甲斐国 2東三河 2遠江国三方ヶ原 2三河鳶ノ巣山砦 2江戸城西丸 2伊勢長島城 2丹波亀山城 2伊勢国 1三河岡崎城 1駿河国 1遠江国河合 1遠江国高部 1遠江国見付 1遠江国入山瀬 1
或記に土岐改めて菅沼と名乘りし事は、正長元年南方小倉殿密かに嵯峨を御立出ありて、伊勢國に趣き國司の北畠を賴ませ給ひて軍おこさせ給ふ、その頃三河國の住人菅沼信濃守俊治、足利殿を恨むる事ありしかば、小倉殿の御方に馳せ參る、小倉殿ほどなく武家と御中たいらがせ給ひて再ひ嵯峨に返らせ給ひしかば、菅沼も本國に歸りて忍ひ居たり、いつまで斯てはあるべきとて、國人等を催して兵を起す、土岐大膳大夫興安幷に富永伯耆守氏久、士岐孫太郞1賴房舍弟新二郞光貞、土岐新三郞定直等、追討の御使承て三河の國菅沼に發向すこゝに土岐新三郞定直は搦手に向ひしが、信濃守俊治と戰ひて自ら其首を取てけり、俊治が舍弟新六郞俊榮は、元より將軍家に近侍して、兄が謀反に組みせねば御免を蒙りて元の如く召仕はる、此度の勸賞として土岐新三郞定直、菅沼が所領を賜りし程に、土岐あらためて菅沼とぞ名のりけると云々、此說尤も詳かなり系圖には新三郞と計り載せて名をば失ふ、定直といひしと見えき、されど系圖に見えざる事なれば、或記の說もいかゞあるべき、
- 士岐孫太郞 — 底本のまま。「土岐」の誤植とみられる
定盈が祖父新八郞其名つたはらず同國野田の城に移り住む、定盈父祖に繼き野田の城に住して今川に屬す、永祿の初め今川上總介氏眞德川殿と中たがひし、當國の住人、德川殿の御方に參る者多し、定盈又德川殿に組みし參らす、氏眞安からぬ事に思ひ、夜に乘して野田の城を襲ふ、定盈無勢に多勢叶ひ難く、一方打破て岡崎の城に參る、氏眞頓て駿河の國人等して城を守らす、定盈程なく攻落して還り住む、同き八年當國の住人、悉皆德川殿に隨ひ參らせ、又遠江國を併せられん事を議せらる、定盈謀り申す旨ありて、同き十一年の冬に至り、井伊谷刑部等の城を取てまゐらす、德川殿悅ばせ給ふ事大方ならず、頓て其賞行はれ十二月十二日遠江國に在る所の本領悉く定盈にぞ賜りける河合の郷幷に高部等の地也
元龜元年の夏姉川の合戰には、野田の城に留り守る、同き三年十月甲斐の武田大膳大夫入道信玄、德川殿に中たがひして遠江國に發向し、二股の城を攻め落す、東三河の國人等忽に心變して悉くに武田に與みす、定盈同次郞右衞門尉、二人ばかりぞ日頃の契を違へずして、德川殿の御爲に野田の城に立籠る、去程に十二月廿二日味方が原の合戰、武田入道うち勝て刑部に陣を取り、明れば天正元年正月十一日、野田の城に押寄せたり、德川殿かねてより定盈が加勢として、松平與一郞忠正を差向けらる、されども城中無勢にして籠る所の軍兵四百人には過ざりけり、此城究竟の要害たやすう落さるべしとも見えず、入道謀事をめぐらし、地を穿ちて城中にある所の井の水悉くに切り落しければ、味方俄かに水乏しく成て、士卒悉くに渴して死せんとす、定盈次郞右衞門尉と共に自ら首刎ねて、士卒の命に代らんと謀つて、かたきの陣に使たてゝ斯くと告げ、二人城を出で首はねんとせし處を、入道とかくたばかつて生捕にぞしたりける、山縣三郞兵衞尉昌景、預人となつて郡内の地にゐて行き、今は味方に參られん事こそあらまほしけれと、樣々に敎訓せしかども二人承引の氣色もなし、入道さらば計らふべき樣ありとて、德川殿に使者を參らせて、それに候ふ東三河の國人等が人質賜らんには、野田の城にて生捕つたる二人の者をも、返し參らすべきにて候ふと云はせたり、さらば賜はらんと答へ給ひ、作手段峯長篠の兵共が人質と、取替させ給ひしかば、定盈等は事故なくぞ歸りてける、
此時德川殿は野田の後卷あるべしとて、速に濱松の城を出させ給ひ、笠取山に陣取り給ひ、信長の加勢を待たせ給ふに、味方原の戰に味方利なかりしと聞て、信長とかく躊躇ひ給ひし內に、城は落てけり、信玄入道野田の城攻めし中より、忽に違例して本國に趣き、四月十二日に卒しぬ、○或記に曰く野田の城に籠りし兵に、伊勢の芳休と云ひしは、かくれなき尺八の上手なりけり、或夜櫓の上にしてこれを吹く、寄手の陣中より人出でゝ聞くとぞ見へし、闇の夜なれば物の色目も見えわかず、芳休怪しと思ひて其後夜毎々々に櫓に登りて尺八を吹く、夜更けてのち人むれ來て聞き、吹き終りぬれば聞人も歸る氣色なりけり、いつも人の必むれ集ると見えし所を、晝の程にとくと見置きて、鐵炮を架けて矢つぼ能く極め置いて、その夜また櫓に登りて吹く、案の如く人また群がり來て聽くと見えし所を、鐵炮を放しけるに、いと物靜かなり、さては此程人來りぬと見えしは、我ひが目にやある又思ふ所に中らざりしにやと、窺ひ〱尺八をば絕えず吹きしに、やゝあつて後密かに引いて歸るなりけり、今夜はいまだ吹はてぬに歸るは、一定矢頃は違はざりけりと思ひしに後に聞けば、信玄入道尺八にめでゝ夜每に出て聞きしに、芳休が放ちし鐵炮、人もこそ多きに、かの入道に中りしは運のきはめと覺えたれ、大事の要所にや中りけん、程なく死しけると云ふ、此事にこそあるらめ、甲陽軍鑑に入道の手負たるなど云ふはあらぬ事なりと事々しうあらかひ置きたり、おぼろけなる事なれば、手負ひぬといふも、一定とは思はねど、世に傳ふることなれば、こゝに記し置きぬ、
- 天正三年正月 — 底本のまま。長篠の戦いと鳶巣山の要害攻略は天正3年 5月(21日)である