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天野
この家によく出る人物・地名
人物 天野康景 29徳川家康 16松平広忠 8戸田康光 8今川義元 6織田信秀 5天野景隆 4松平信孝(三木) 3林秀貞 3井出正次 3林家臣森平太 2岩室重休 2石川家成 2本多広孝 2高力清長 2本多重次 2天野遠景 1松平忠倫 1石川清兼 1葛山氏元 1岡部正綱 1徳川家臣榊原平七郎 1太原雪斎 1織田信広 1
地名 駿河国 8三河国岡崎 7三河国 4尾張国 4駿河国府中 3三河国上和田 2三河国西郡 2三河国吉田 2尾張国熱田 2関東 2駿河興国寺城 2尾張丹下砦 1尾張中島砦 1三河岡崎城 1三河国田原 1遠江国潮見坂 1遠江国 1三河田原城 1尾張熱田神宮 1三河安祥城 1尾張大高城 1尾張鷲津砦 1尾張丸根砦 1相模国小田原 1
同三左衞門尉名知れずまた何れの流と云ふ事もさたかならず織田備後守信秀に心を合て、岡野上利田1に要害搆へて岡崎に背き、事既に難儀に及びしかば、岡崎殿御家人等を召集められ、人々の意見を聞召す、宗徒の人々僉議して今川殿の加勢を乞はせ給ひ、まづ岡野上和田を攻め破つて後、尾張の國に攻め入り丹下中嶋等の城を落さるべしと議定して、石川安藝守天野甚右衞門尉、御使を承り駿河國に趣き、葛山播磨守岡部次郞右衞門尉に就きて此由を申す、今川殿聞召し信孝等が御一族の中にあつて主君に背き參らする條、甚た無道の至なり、それに織田が心を合せ傾け參らせんとするこそ心得ね、義元助け參らせて御敵打亡さんこと易き程の事なり、去ながらかゝる時、人の心定らねば事の疑ひも又起り易し、味方の心一致ならずしては軍に勝つ事を得べからず、されば堅く兩家の誓ひを結ひてこそ、軍勢をば參らすべけれ、先づ然るべき人質を賜るべうもや候と宣ひて御使を返さる、岡崎殿大に悅ひ給ひ、德川殿其頃は竹千代殿と申て、御年六歲に成らせ給ふに、宗徒の御家人等が子息等を差添へられ、駿河國へ參らせらる、御供の輩都合五十餘人を具せられ、天文十六年八月二日に岡崎の城を御立あつて西郡より御船に召され吉田に着かせ給ふ所に、當國田原の住人戶田彈正少弼、竹千代殿御迎の爲に潮見坂の邊に假屋を打つて御待ち設けす、かゝる所に森平太とて元は岡崎の侍、今は尾張國にあつて林佐渡守に仕ふ、竊かに御供の人々の許に來て、人々はいまだ知召されずや、彈正少弼心變りして備後守の許に使たてゝ抑も今川治部大輔、岡崎に加勢して駿河遠江參河の軍勢を催して、尾張の國に攻め入らんとす、廣忠が質として嫡男僅か六歲なるを、駿河國に納れんとて我城の邊を打過ぐべしと聞ゆ若し彼男を奪ひ取て尾張國に留められんには、參河國は悉く御手に隨はん事、踵を廻らす可らず、當國にして東にあらん郡は、某が進退にたに任せられんには、如何にも計て彼男取つて參らすべしと云ひ送る、信秀悅ふこと斜ならず、頓て林佐渡守岩室長門守に軍勢附けて、田原の城に差向け東郡の地、御進退の事子細あるべからず、是は當座の引出物とて靑銅五百貫を贈らる、彈正少弼まづ林岩室が勢を第二の城に隱し置き、大船二艘支度す、一艘には人々、一艘には彼軍勢を乘せて、明日の曉に熱田に送り參らせんと結搆し候ひぬ、心し給へ人々と細々と語りて城中にぞ歸りける、御供の人々是を聞いて少弼殿と申すは正しく岡崎殿今の御舅、彼御娘我等が國に渡らせ給ふ、縱令その御腹を假らせ給はずとも、若君又彼御孫にこそあんなれ、如何でかゝる御結搆やあるべき、かの平太、今は敵の國にあり、されば如何なる謀あつて、かゝる事をや云ひぬらん、此事誠しからずと、驚く者一人もなし、夜既に明方に成て少弼御假屋に參り、今朝は浪風も治りて海の面おたやかなり、御船に召さるべう候と申す、榊原平七郞進み出て、西郡より吉田までは御船に召されなん、それより駿河の國府までは陸より御供仕るべしとこそ侍れ、こゝより又御船に召されん事、岡崎にての仰せ承らずと申す、少弼聞て人々かねて知り給ひぬらん、こゝより、駿河に至らんには、陸に大河いくつも流れて、然も此程ふりつゞきたる雨に、水かさ增り通路自由ならず、こゝより何れの湊までも御船に召されんこと、便よらんぬと覺ゆ風若し變りたらんには、陸にこそ上り給ふべけれ、少弼いかで惡しうは計るべきと謂れて、人々承りぬと申て、若君の御供して皆々船に取乘る、海路遙かに漕き出せば、これや少弼が御道送りの船と覺しく、弓鎗立て並べたる船こそ、一艘見え來りたれ、向ひに當つて森一むらの見えたるは、熱田の宮居にあらずやと、人々大に驚き船頭を召て尋ぬるに、とかく答ふる程こそあれ、御船はとある湊に着きて見慣れぬ者共、御迎に出て向て此處彼處に並み居たり、御送と見えし軍兵同じく陸に上る、大將と覺しき兵、御供の人々に使立て岡崎殿織田備後守信秀と御心を合はせらるゝに依つて、竹千代殿を迎へ奉る所なりと申て、熱田の大宮司が許に入れ參らせ嚴しく警固し奉る、御供の人々只あきれに呆れ果てゝ、互に目と目を見合せて如何にも思ひ分かず、三郞兵衞尉康景、此時は又五郞と申て年纔か十一歲、初め御船より上がらせ給ひし時、郞等を密かに近付けて、汝は如何にもして岡崎に歸れ、文かきて參らせんこと叶ふべからず、只汝が見し樣を一々に申せ、御供の人數、敵に知られん後は汝が忍び出てんことも叶ひ難かるべし、はやとく〱敵の中に紛れ入て、行けよとて歸へす、この郞等とかくして忍ひ出で、明日岡崎に參りしにぞ此由かくとは知れてける、同き十八年三月六日岡崎殿かくれ給ひ、今年十一月義元、歸依の僧雪齋が謀にて安祥の城を攻め、信秀が三男三郞五郞信廣を虜にして德川殿と取替て、駿河國に迎へ參らせしに、康景又御供しぬ、甚右衞門尉は岡崎に留つて守る弘治二年二月德川殿御軍始の時、康景父子隨ひ參らせ、程なく又駿河の國府に歸らせ給ひしに、康景猶御供に侍ふ、甚右衞門尉は石川本多と打連れて駿河國に至り、德川殿御歸國の事を義元に訴ふ、石川日向守本多豊後守が傳合せ見るべし大高鷲津丸根の戰を初として、小田原陣に至るまて、康景が高名數ふるに暇あらず、三河國悉く御手に屬せし時永祿八年二月七日、始て奉行職を置かる、康景高力與左衞門尉清長、本多作左衞門尉重次と三人、同じく其職に任ぜらる、德川殿此三人の奉行を置かれし時の仰に、世の人夫婦の間むつまじからぬも、子をまうけぬれば和らぎぬ、職事つかさどらしめんには、この心得ありぬべしとありしが、寔に此三人の心ひとしからず、されば當時卑しき者共の諺に、佛高力鬼作左どちへんなしの天野三郞兵衞といひしなり、想ふにこの康景寬猛の間に夾りて、寛を濟ひ猛を濟ひ、偏ならず頗ならずして政平かなりき、たとへば羹を調ぶる鹽梅、藥を和する甘草の如く、極めて其功に居て人その功を知らず、其智ありて人その智を知らず、此等の人をこそ大智の人とは云ふべけれ、彼が十一歲の時敏なりしにて、その智の一端をば知りぬ、又德川殿の奉行三人置かれし事、古もかゝるためしやありし、我は未だ見ず、されど能く人を知るにあらずしては、如何で學ふことの叶ふべき、神智の程とかう申に及はず、國よく治りて後に天下平になりぬ、創業の功、康景等が輔け少からず
- 岡野上利田 — 底本のまま。同じ頁の二番目の「岡野上和田」の「和」を「利」と印字した底本の誤植とみられる
天正三年正月十七日の夜、康景が下部女の夢に、歌の上の句見たりしを、明る十八日の朝、康景聞てめでたき夢なりと思ひければ、この由を德川殿に申す、此月の廿日は、當家の佳例として御家人等召集められて、御鎧祭られ供御の物給ふ日なり、此日連歌の道に堪能なる輩に仰せて、かの夢に見たりし句に繼て、百韻の連歌興行せらる、此年の夏長篠の合戰に御方大に利ありしかば、長く一つの佳例となり、代々此事を行はる、左大臣家四月廿日に失せ給ひし後は十一日に移されて此事を行はるゝ事なり、關が原の戰には關東に留る、明れば慶長六年の春、駿河國興國寺城を賜ふ、一万石是より先に五千石の地を領す、何れの地と云ふこと定かならず同き十二年三月九日康景忽に興國寺の城を去て逐電し訖んぬ、其故を尋るに、康景家作らせん料に竹木切らせ貯へしに、夜每に盜人の爲に取れしかば、足輕の兵少々遣してこれを守らす、此度は盜人大勢群かり來て、彼番の足輕脅かして物共盜取らんとす、番の兵禁ずるに堪へずして、刀を拔て切てまはる、盜人是に恐れて逃け走る、此盗人は同國の御領富士の下野田原といふ所の百姓等にぞありける、此內疵蒙れる者一人を出して、所の代官井出甚助に訴へて、康景が足輕の兵と口論に及ぶことありしに、忽に刄傷せられぬと申す、井出この由を聞て康景が許に使立てゝ、御領の民たらん者を恣に誅せんとする條、其科輕からず、かの下手人を屹度給るべしといふ、康景彼使に向ひ凡そ盜賊を殺すの條、これ古今の定格なり、彼時多くの盜人むらがり來るに至て、康景が番の兵無勢なるが故に、一人をだにも或は捕へ或は誅せず、わづかに刄傷に及ふ條頗る無念の至也、又かの盜賊の來る時、康景が兵いかで御領の百姓等とは知るべき、たとへ御領の民ならんにも、公に盜を行はんに豈これを禁ずる事を得ざらんや、初め盜賊の毎夜來て竹木を盜むに因て、康景命して守らしむる事、彼が來らん時追捕せしむべき爲なり、其力に叶ふべからざらんには、殺傷に及ばんこと勿論なり、されば彼兵が盜を刄傷せしこと、固より康景が命に依る、然るに今かれを下手人として參らすべきこと思ひもよらずと返答す、今年二月大御所關東より駿河に歸らせ給ふ時、かの疵蒙れる民、三嶋の邊に出向つて、某はしたなく康景が足輕の兵と口論に及ひ、忽に刄傷せられ訖んぬ、御代官康景が許に使立てゝ下手人を乞はるゝに至て、却盜と稱せらる、謹て御裁斷を仰く所なりと訴ふ、是を撿知せらるゝに、其脊中に刀のあたりたるあと五六箇所あり、是は逃け走る所を斬られ畢んぬと稱す、國府に歸り入せ給ふに及で、天野井出を召决せらるゝに、一人は鬪諍と稱し一人は劫盜と稱す、大御所康景は非據を論すべき者にあらず、如何さまにも訴ふる者の僞る所にやと思召ければ、御糺明、後日にあるべしと仰せ下さる本多上野介正純、内々の仰を承て康景が許に行き向ひ、彼れ土民なりといへども公の民なり、和殿が兵は私の人なり、縱令和殿が兵所行あやまらざらんにも、和殿いかで私の義たてんとて公の威を損ずべきやうやある、まげて下手人を參らせん事こそ、あらまほしけれと云ひければ、康景直きをまげて、曲れるに隨はん事、素懷にあらず、康景が兵卑賤の奴原なりといへども、其罪にあらずして、かれを抂て殺さんより、ゑかじ我身罪かうふつて滅びんには、我既に罪かうふらん上は、いかで御政道をも害すべきと云切つて、終に城を去て、いづくともなく失せにけり
上にしては公の政を害せず、下にしては私の恩を傷らず、一人の罪あらざるを殺さじとて、萬石の祿を棄つることを、ものゝ數ともせず、獨その志を行ひ其義を直くす、此世には有がたき賢人なり、