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○三好實休戰死の事附光忠の刀の事

卷之三 第5話 · 段落 4 · NDL 1078984 64コマ R

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三好修理大夫長慶は細川讚岐守持隆の臣なり。三好は其先甲斐の源氏小笠原の族にて、信州に住せしが、三好長房の阿波の守護として世々阿波に有り。京都に攻め上り、細川晴元に代りて五畿內の事を執る。第二の弟を豐後守之長、後實休と稱す其弟を安宅攝津守冬康、其の弟を十河一存と言ふ。天文二十一年實休持隆を殺し、其の後室を己が妾とし、惡逆を恣にす。永祿五年佐々木義弼京に攻め上りしかば、萬松院殿は八幡に在りて防ぎ給ふ。畠山尾張守高政佐々木に黨し、紀州より泉州に討ち出づるにより、實休阿波より渡海し、岸和田の東久米田に陣す。久米田寺に橘諸兄公の墓あり。實休墓を堀り石の槨を取り出す。聞く人眉を顰めずと言ふ事なし。三月五日高政兵を分ち、先陣を額が原に押出す。實休山上より見下し、自眞先に進んで高政が先陣を打破る。檜木山に伏せ置きたる高政の兵に根來法師相加り、不意に切つて懸り、三木內匠一番鎗を合せ、實休が先陣敗北しけり。實休は將机に腰掛けて引くな者共と下知し、散々に戰ひ殘り少く討たれしが、實休をば根來左京打取りたり。高政大に利を得、河內に押入り、此の時長慶が籠りし飯盛の城を圍み攻む。冬康兄の弔軍を志し、且長慶を救はん爲に岸和田を打出で、高政と藤井寺の南葉引野にて軍あり。冬康勝利を得たり。實休討死の刀は光忠が作なり。信長光忠が刀を好み二十五腰まで集められしが、堺にて第一の好事木津屋と言へる商家に、彼の光忠の刀を殘らず見せて、此中に實休光忠や有る、と問るゝに1、一腰を取り出して是ならんと言ふ。信長何とて見知りたるや、と問はるゝに、切先の少缺けて候は、實休打死の時根來左京を刎られしに、臑當に當りて缺けたると承り候、と申しければ、信長好く知りたり、と言はれしとぞ。
  1. 誤植 — 底本「問るゝに」。「は」の脱字か(次の列は「問はるゝ」)。
實休討死の時、長慶は飯盛にて連歌せしに、告來る。すゝきにまじる芦の一むらといふ伺人々2附わづらひたりしに、其書を披きて兎角を云はず差置き、古沼のあさきかたより野となりてと附け終りて、偖て實休討死なり、と告げ來れり。今日の連歌是にて止べし、とて偖兵を出されしとなり。
  1. 誤植 — 底本「伺」。付句の文脈から「句」の誤植か。
一說、實休は泉州岸和田を安宅攝津守冬康に守らしめたり。畠山高政は紀伊國廣浦と言へる所に流落の體なりしが、熊野根來寺の法師を驅り催し、岸和田へ押寄する。實休後卷せんとて渡海し、堺の津にて勢揃せり。高政、岸和田を攻めんとする兵を城の上なる山に引取り、城を見下したり。四國の兵は篠原右京進長房、一宮長門守成助等岸和田の大手に陣し、實休、旗本は久米田に有りしに、高政が陣を見て、高政は東を指して引退くと覺ゆ。遙々爰に來て討漏さん事口惜き事なり。山上へ押掛て一騎も剩すまじ、と下知するを、攝州高槻の城主入江左近大夫、鹽田采女正二人、京よりの使として來り居しが、敵を小勢なりと見て、左宣ひ候へど、今巳の時なり。高政軍配よし、味方の爲には大凶なり。唯今懸らば十に十敗北すべし。暫時を移し東の谷より二手にてあひしらひ、午の時に及びて軍を進むるか、又敵を南山へ誘き出すか、此二の間に過ぎじ、と言へば、實休、心安かれ。時を過さば敵に利有るべし。切つて懸りなば彼なる山を尾傳ひに東北へ下るべし。左なくば南へ下り右の尾崎へ引取るべし。入江鹽田二手に兵少ければ篠原を差添へなん。打連れて伏兵になられよ。高政夢にも知らずして、東北の道に出でなんを待ちかけて討たば安かりなん。高政若し物見を出して見附くる程ならば、南の山に登り橫合に突懸られよ。高政は籠中の鳥なり、とて二人の詞を用ひず。入江等東北の山際に進んで待ち居たり。實休は篠原が兵をもて高政を誘せけるに、長房勇懸りて進み行く。山の上より根來法師、成田玄齋、雜賀孫市に、實休旗本僅に見ゆ。左へ廻りて切つて懸り、勝敗を一時に決すべし。阿讚淡の三國の兵を引き請けて一手立て無くばあらじ。若し實休を討漏さば、共に戰死すべし、と言へば、孫市子細にや及ぶ、とて山を下り立、眞一文字に實休旗本に押懸り、忽ち實休を鎗玉に上げて討取りたり。鹽田等は敵を待て共見えざれば、如何にと思ひ物見を出す所に、實休討死を告げ來る。然らば高政が陣に切つて入り討死せよ、とて駈向ひけるに、勝に乘りたる敵をかさに受け、鹽田も討死しければ、殘る兵共堺を指して敗北しけり。是永祿五年壬戌三月五日久米田合戰にて、實休三十六歲なりといへり。