三好修理大夫長慶は細川讚岐守持隆の臣なり。三好は其先甲斐の源氏小笠原の族にて、信州に住せしが、三好長房の阿波の守護として世々阿波に有り。京都に攻め上り、細川晴元に代りて五畿內の事を執る。第二の弟を豐後守之長、後實休と稱す其弟を安宅攝津守冬康、其の弟を十河一存と言ふ。天文二十一年實休持隆を殺し、其の後室を己が妾とし、惡逆を恣にす。永祿五年佐々木義弼京に攻め上りしかば、萬松院殿は八幡に在りて防ぎ給ふ。畠山尾張守高政佐々木に黨し、紀州より泉州に討ち出づるにより、實休阿波より渡海し、岸和田の東久米田に陣す。久米田寺に橘諸兄公の墓あり。實休墓を堀り石の槨を取り出す。聞く人眉を顰めずと言ふ事なし。三月五日高政兵を分ち、先陣を額が原に押出す。實休山上より見下し、自眞先に進んで高政が先陣を打破る。檜木山に伏せ置きたる高政の兵に根來法師相加り、不意に切つて懸り、三木內匠一番鎗を合せ、實休が先陣敗北しけり。實休は將机に腰掛けて引くな者共と下知し、散々に戰ひ殘り少く討たれしが、實休をば根來左京打取りたり。高政大に利を得、河內に押入り、此の時長慶が籠りし飯盛の城を圍み攻む。冬康兄の弔軍を志し、且長慶を救はん爲に岸和田を打出で、高政と藤井寺の南葉引野にて軍あり。冬康勝利を得たり。實休討死の刀は光忠が作なり。信長光忠が刀を好み二十五腰まで集められしが、堺にて第一の好事木津屋と言へる商家に、彼の光忠の刀を殘らず見せて、此中に實休光忠や有る、と問るゝに1、一腰を取り出して是ならんと言ふ。信長何とて見知りたるや、と問はるゝに、切先の少缺けて候は、實休打死の時根來左京を刎られしに、臑當に當りて缺けたると承り候、と申しければ、信長好く知りたり、と言はれしとぞ。
- 誤植問るゝに — 底本「問るゝに」。「は」の脱字か(次の列は「問はるゝ」)。