謙信の許に赤小豆粥、竹俣兼光、谷切とて三の刀有り。竹俣兼光は元越後の百姓持ちたりしに、或時山中を通りしに雷烈しく鳴りたりしかば、あはや落掛るかと思ひて、刀を抽き頭に指當目を塞ぎ居たり。稍有りて空晴れしに、刀の鋒より血流れ殷に染みたり。又或時大豆を袋に入れて歸るさに、袋の綻より一粒づつ零れけるが、鞘に當りて二つに成りしかば怪み見しに、鞘の破れて刄は纔に出たりしに當りし故なり。雙なき刀とて竹俣三河守乞得しが、謙信後に差れけり。弘治年中川中島合戰に、信玄の兵輪形月平大夫といふ者鐵炮をもて狙ひしを、謙信馬を乘寄せ、一刀に切伏せて駈け通られけり。後に甲斐の兵共是を見るに、輪形月は物具かけて切られ、持ちたる一兩筒は二の見通の上より切り放したり。如何なる刀にて斯くは切られし、と言ひ合へるに、則彼の兼光の刀なりけり。景勝の時京にて研がせしを越後にて人々に見せて、京の水にて研ぎたれば刄の光殊更勝れし、と悅ばれしに、三河守熟々と見て、此は贋物にて候。子細は此刀鎺より上一寸背に馬の毛の通るべき計の穴の候。是を知る人外には無し、と申す。然らばとて竹俣を京に遣りて探し求むるに、眞の兼光の刀を淸水の南坂より取出す。斯くと石田三成に告げて、贋物したる者十三人日の岡にて死刑せられけり。竹俣越後に持歸りて、彼の穴に馬の毛を通して景勝に見せけり。其後此刀太閤に奉る。秀賴亡びて落武者取て和泉河內の方へ行きたりと聞えしかば、此刀を獻ずる者には、黃金三百枚賜るべき由仰せ出されしか共、其行方終に知る人無しとぞ。