慶長二年朝鮮の番兵船數百艘をから島に置きて日本の軍船を防ぐ。諸將番船を乘取るべき評定有り。加藤左馬助嘉明、目に餘る大軍を小勢をもて爭か打勝つべき、と言はれしが、密に手の者に下知し、五人十人船に乘り番船の方に漕向ふ。嘉明、法を背く者共を押留めよ、とて追々船を出されしが、稍有りて、我押止ずば止らじ、と言捨て船に乘り漕出す。河合庄大夫、同庄次郞、荻野作右衞門、かぎ懸の三介五人打乘りて番船の中に押入たり。三介、船は何れ、と問ふ。正中の本船に著けよ、と下知し、軈て乘移る。敵其勢に恐れ、船底に入りて劔を拔き鏃を揃へて待ちかけたるに、嘉明少もためらはず飛込みたれば、從者なにかは殘るべき、續いて飛入りて撫切にして本船を乘取りたれば、諸將も追續き船を押出し來る。旣に鐵炮の藥に火移り、燒船を乘取る者多し。河合庄次郞は十六歲なるが、飛入るとて海に飛込溺死す。佃次郞兵衞、加藤權七郞勝れたる功名せり。嘉明一人の武勇にて七月十六日白晝に押寄せ、番船百二十艘、一艘に五百人三百人乘組たるを、僅の士卒にて悉く海に切沈めたるは古今に稀なる事共なり。秀吉感狀を與へ、六萬二千石に增祿して十萬石を與へらる。池田家の長臣池田河內が妻は嘉明の女にて、河內が男伊賀は外孫なり。伊賀若き時外祖父に武功の事を尋ねければ、今は年老て過ぎつる事皆忘れたり、とのみ言ひて止ぬ。から島の船軍の事を問ふに、十五六歲なる小姓の船に乘移る時、矢に中り海に落ちて死したりき。不便の至りなり、と只此事を語りて他の事に及ばざりしとぞ。