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○本多正重の事

卷之十三 第23話 · 段落 2 · NDL 1078984 228コマ R

人物地名家(氏)官職日付索引へ

關ヶ原の戰九月十五日辰の刻過ぐる迄は、東照宮桃配に御旗を立てられつる所に、本多三彌正重來りて、今少し先へ御旗を進め給ひ然るべし。是は敵合遠し、と申すを聞し召し、口脇の黃なる男にていはれざる事を、と仰せければ、三彌御後の方に廻り、口脇は黃なるにもせよ、遠きは遠し、と獨語申しけり。
三彌は佐渡守正信の弟にて、若き頃武者修行して度々功名あり。長篠の後は瀧川一益の許に有り。何の軍にや、諸浪人皆働有りしに、三彌手に合はざりしかば、一益、さしも譽高き人の今日の事は如何に、と云ふ。此答は明日こそ、とて其明の日首二つ取て、昨日の答是なり、といへり。甚だ風流を好み、物數奇賤氣なる事無く、常に身に薰物をとめたり。前田家にも暫有り。慶長元年伏見にて東照宮に仕へ奉りけるが、以の外に直言する人なり。或時幸若八九郞を召され、高館の舞終りて後、武藏坊辨慶は世に優れたる者なり。今の世に無かるべし、と仰せ有りしに、三彌承りて、今の時辨慶は有るべけれども、判官に似たる主君の候まじ、と申せしとなり。大坂冬の陣の時台德院殿に仕へ奉りけるに、東照宮、三彌は能く拗る者なり、と仰せられけるが、其後一萬石賜りけり。東照宮御前に召出され、如何に思慮したるや。人柄をたしなみて拗ざる由聞きたり、と仰せ有りければ、三彌、將軍樣は仕へ奉りよく候。彼の如き主君に拗申すは狂者にこそ候へ、と申しけるを聞し召し、又持病起りたり、と笑はせ給ひけるとぞ。七十二イ七歲、元和二年病死せられけり。