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○加藤淸正の北の方大坂を忍び出でられし事

卷之十五 第7話 · 段落 1 · NDL 1078984 249コマ L

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加藤淸正の北の方も大坂に在りしを、石田、人質に取らばや、と云ふを聞きしかば、淸正より附けられし竹田善兵衞家正、大木土佐恒持謀を廻し、轉法口に居ける淸正の舟奉行梶原助兵衞に山梔子の煎汁を飮ませ、四五夜眠らせず。疲れ衰へ大病人の如くなりしを、籠に乘せ、綿帽子冠らせ、前後に衾重ね、門番の前にて戶を開き、斷りて屋敷に往く事度々に及べり。後は見なれて更に咎めず。又川口にて蜈蚣船を晚每に漕ぎ比をさせてけり。是も番船見慣れて後は、何は早き遲き、など言ひて守怠りぬ。斯る處に淸正より、吾は石田に與す可き用無し。如何にもして北の方を敵に渡さずして落せよかし、と云ひ來りければ、大木工みつる事にては有り。北の方に此由を告げて梶原が衾の下に北の方を押匿し、其上に靠れ懸りて每の如く籠の戶を開き門番の前を通りけり。土佐も跡より供して、若見咎められなば北の方を刺殺し、切死にすべしと思ひたれ共、事故無ければ轉法口に行きて、頓て蜈蚣船に乘せ、漕ぎ出し、番船の前をつと行き過ぎて、二三町にもなりければ、彼は如何に、と騷ぎ犇めく間に、鳥の飛ぶが如く一里餘も漕ぎのびぬ。番船共、謀られたるよ、とて碇を上げ追附かんとせし間に行き過ぎて、遂に肥後に下り著きぬ。大木、竹田は大坂に居殘りて此事洩聞え、打手來らば思ふ程戰はんと待懸けしに、關ヶ原の軍破れしかば、思はざるに難を遁れけり。大木元、佐々成政に仕へ後淸正に仕へ、才畧篤實兼備へし者なれば、淸正寵愛厚かりしに、今度の事に依りて、又二千石の碌1を增し與へられしとなり。
  1. 誤植 — 底本「碌」。振り仮名「ろく」から「祿」の誤植か。