常山紀談本文データベース

目次 › 卷之十五 › e348

○河村權七郞が事

卷之十五 第6話 · 段落 1 · NDL 1078984 249コマ R

人物地名家(氏)官職日付索引へ

關ヶ原の亂の時、加藤嘉明の北の方大坂に有りしかば、河村權七郞を伊豫の松前より大坂に遣りけるに、忍びて屋敷に至り北の方に相見え、松前より長臣等が代とて參り候。若奪ひ取らんとせんとも、臣斯くて有らん程は危くな思し召され候ひそ、とて屋敷の隅に井樓をあげ柵の木ゆひ、敵に向へるが如し。叶はぬ時は自害を勸め、臣も御供申すべし、と云ひけるに、細川忠興の北の方自害の後、人質を奪ひ取る事止みたりけり。河村に二百石の祿を增與へられしに、後河村言ひけるは、大坂川口の守り固く、中々通るべき樣無きを、尼ヶ崎の漁夫を談ひ、船に乘り網の中に身を潛め、敵の中に入りて守りしは、必死を思ひ定めたる事なり。關ヶ原の軍に首取つたる者に同じからず。然るに恩賞の薄き事、明ならぬ殿なり、とて出奔しければ、嘉明忿りて、探出して誅せばや、と言はれしかば、或山中に匿れ居たり。大坂の亂起りし時、嘉明江戶に殘し留められ、不慮の事有らば取卷きて攻殺さん、と言合へり。其比夜更て河村、嘉明の屋敷の門を叩き、靑木佐右衞門を呼出す。靑木怪み、立出でて見るに河村なり。こはそも如何なる事ぞ、といふ。河村、事新しきやうなれ共、君に仕ふる者の忠を致すは常の習なり。然るに過ぎにし大坂の事に誇りて殿を嘲りて出奔しける事、後悔今更益なし。十餘年山中に匿れ居しに、云々の事にて殿も危く御座しますと聞きて、夜を日に繼ぎて參りたり、と言へば、靑木、誠に義理の志はさる事なれ共、殿の忿甚しければ、斯くと申したりとも許されじ。疾く歸られよ、と言へば、河村、臣たる者の義を知られなば河村はなど來らざるやと言はる可きに、門內にだに入れず、疾く歸れとは口惜の詞よ。此上は町屋に匿れ居て殿の先途を見ん、と云ひしかば、靑木、さらば先づ申して見ん、とて內に入り嘉明に告ぐれば、それ呼び入れよ、とて軈て寢所に召出されしが、一目見るより淚を流されしに、河村も淚に咽び、君臣暫詞も無かりしが、河村、思も寄らず殿の御前に出づる事よ。今生の思ひ出に候、と申す。嘉明、汝が志言はん樣も無し、と悅ばれけり。夜明けて、河村こそ來れ、とて下部迄言ひ囃し、大軍の援有るが如く勇みけり。嘉明寵愛して八千石與へられけり。程無く病死しければ、奧州四十萬石に成られし時、河村、存命へたらんには國政の輔佐たらんに、と嘆かれしとかや。