e359.p01校訂済259R:3–6別備前中納言浮田秀家は、關ヶ原の時一萬八千を帥ゐられしが、軍敗れて近江の伊吹山に懸り落ちられし。美濃の白樫村に暫し隱れて有りしに、遂に忍びて西國に落下り薩州に著かれしに、其事聞えて東照宮死罪一等を宥めさせ給ひ、八丈島にぞ流されける。まことに苫葺く庵、竹編める戶に、雨もたまらず風も防がねば、黑木の柱を削りて書附けらる。
e359.p03校訂済259R:8–9別其後芳烈公光政朝臣備前に御座しましける比、兒島一說西大寺村の商船風に放たれて八丈島に到りけるに、秀家九十餘まで存命へて居られしが、故鄕の者とて、いと懷しげに樣々の物語して、
e359.p04校訂済259R:10–12259L:1–3別秀家、備前には誰か有る、と問ふ。新太郞少將と答へ申すに、誰が事ならんとて家老の姓名を聞きて後、さては池田の家にて有りけるよ。又所々に城多きや。城の北に伊勢の宮を設け置きたるが如何なるぞ、と問ふ。伊勢の宮は候。されども士の家犇と相並び續きて候、と答へければ、さては世は治りけり。亂世ならんには國境の城に士を分ち置き、岡山には士の家多かるまじきに、今の有樣にて治まれる趣を知りたり、と言はれしとかや。われこそはにひ島もりよおきの海のあらき波かぜ心して吹け