關ヶ原の時黑田如水は豐前中津に有りしが、九千餘の兵を率ゐ、九月九日打出でて諸所の城共攻落し、筑前、筑後の浪人共相集り大軍に成りし時、嫡子長政の使來り、關ヶ原にて石田を始め敗北し、金吾中納言秀詮は、長政の謀によりて裏切せられし由告げられしかば、如水大に怒り、空果てたる甲斐守かな。天下分目の軍はわざと月日を過して、浪人のすぎはひを與ふるものなり。何事の忠義だてぞ。日本一の空は甲斐守なり、とぞ呟かれける。其後長政に筑前を賜はりければ、如水も京に上られけるに、諸國の大名如水の門に來りて市をなしけり。山名禪高如水と年比の友なりしが、如水の許に來りて、諸將の尊崇大方ならず。殊に夜中に密談も候とて世の疑ふ事も候なり。就中三河守秀康卿親の如くに敬はれ候。旁德川殿怪しみ思召す處なり。德川殿遠き慮有る人なれば、此方に心安く立入る人の中にも、如何なる目附をか設けられたらん。筑前守の武略德川殿の賞恩淺からず候に、斯くては筑前守の爲に惡かりなん。德川殿頻に用心有るも皆如水を恐れての事なりと人も申し候。猶又醍醐、山科、宇治に浪人夥多居候も、如水の隱し置きたると人々疑ひ申すなり。如何に、と申されけるに、如水聞きも敢へず、內府を攻亡し、天下を取らんと思はんには、いと易き事なり。筑紫をば皆打平げたり。島津のみ殘りしかばあつかひを懸けて味方とせん。若し楯つかば攻破らん事尤易き所なり。中國、備前、播磨まで皆空國にて有りしかば、我其頃二萬餘の軍兵を率ゐ、加藤、鍋島は旣に我に隨從すれば、兩先陣として海陸二手に分ち、道すがら浪人共を驅集めんに十萬は有るべし。淸正は猛將なり。吾旗本に有りて攻め上る程ならば、內府を討滅さん事掌の中に有りと覺えたれ共、我年老いぬ。切從へし國を捨てて京に上りしに、臆病者共の痴にて、色々の事に恐れて言ふ事を誠と心得られたるや、とて扇を抽いて疊を打つて大言せられしかば、禪高兎角の詞無くて歸られけり。