慶安四年辛卯四月二十九日大猷院殿過ぎさせ給ひて、其七月江戶にて浪人由井正雪叛逆をたくみ、紀伊大納言殿の仰と稱し、判形を似せ謀書を所々に遣し、丸橋忠彌、芝原又左衞門以下數百人徒黨し、御鐵炮の藥藏の奉行川原重郞兵衞も是に與し、埋火にて遠くより火をさし、徒黨の者共船にて海上に出づる時、藥に火を移して江戶を一時に焦土となさんと巧みたりしに、心替したる者三人有りて訴へ出で顯れしかば、丸橋を始め生捕られ、正雪は駿河宮の町にて自害しけり。右の謀書數通浪人どもの許に有りける故、大臣集りて一大事と案じ煩ひ、兎角賴宣卿を殿中へ召して、此書を出す外有るべからず。其時樣子惡かりなんには直に捕へ申せ、とて屈强の兵を隱し置きて出仕を待居たりしに、尾張中納言光友卿、水戶中納言賴房卿も出仕有り。此事を告げ申しけるに、尾張中納言、何條斯る企有るべきや。是謀書にて有らん、となりしに、水戶中納言も、如何にも左候ひなん、とぞ宣ひける。されども各手に汗を握る處に、賴宣卿出仕有りて座に附き給ひしかば、井伊直孝、酒井忠勝、松平信綱、此度浪人共の巧みの次第を申し述べたる處に、阿部忠秋彼狀を披露しけり。賴宣卿殘らず見給ひて氣色打解けて、返す〲も目出度こそ候へ。最早何の恐るゝ事も候はず。其子細は、彼徒黨の面々外樣大名の判を似せ謀書を作りたらんには、三代の御恩を忘れ、若や氣違ひて謀叛を企つるとの疑も有るべきに、我等が判を似せたる故事故無く治りたるなり。幼き公方の御身にて若し御疑ひも有らんには、我等只今國差上げ、如何にも仰に從ひ奉るべし。天下安全にてこそあれ、と悅面に現れて見えしかば、兩公を始め一同に感じ、譽ぬ人も無かりければ、賴宣卿、其浪人共の中壯年の者四五人助け置かれよ。重ねて詮議有るべき爲なり、と宣ひけるとぞ。