常山紀談本文データベース

目次 › 卷之二十 › e431

○毛利勝永大坂に入る事

卷之二十 第11話 · 段落 2 · NDL 1078984 321コマ R

人物地名家(氏)官職日付索引へ

關ヶ原亂の後、毛利森とも記せるあり豐前守勝永は土佐へ流罪せられしに、大坂に事起ると聞き、或夜妻に言ひけるは、我罪有りて斯る所に居住し、汝にも斯く憂き事を見する事ぞとよ。されども我志有り、詞に表し難し、と語りければ、妻の曰く、世の變は如何なる人も計るべからず。斯く成り果てたりとも更に悲しむべきに非ず。妻は夫に從ふ道とこそ聞きて候へ。其御志を承らばや、といふ。勝永曰く、我武名を傳へて數世に及びぬるに、斯く沈み果てなん事口惜き事なり。命を秀賴公に奉りてんと思へども、我爰を忍び出でなば、憂きが上にも猶憂き事や御身の上に添ふらん、と泪を落しけるに、妻熟と聞きて打笑ひ、弓箭取の妻となりて爭でか斯る事を恐れなんや。早此曉船に乘りて武名を潔くし給へ。君の爲め家の悅び何事か之に如かん。妾が事な思ひ給ひそ。如何にもなり給ひたらば、此島の波に沈み候べし。運命目出度く頓て逢ひ奉らん。急ぎ給へ、と言ひければ、勝永悅んで小舟に取乘り、大坂に至り籠城しけり。其後山內對馬守より豐前が妻を固く縛め置き、斯くと告げられしかば、東照宮聞し召し、勇士たる者の志感賞すべき事なり。豐前が妻罪する事有る可からず、と懇に仰せ有りければ、豐前が妻大坂の城中に入りけるとぞ。
一說に、父壹岐守勝信も土州に流されしが病死しぬ。勝永土州に在て年月を送りけるが、時時其從子宮田甚三郞を大坂に遣りて、其從弟なりし大野修理亮が方まで秀賴の無事を問はせけり。斯る所に大野より秀賴兵を起すの旨告げ遣りしかば、勝永、土佐守忠義を欺き關東へ忠を致すべし。先非を改め舊領に復せん志なり、と云ひて土州より船に乘らんとしけるが、甚三郞を呼びて、我大坂に著きたらば嫡子式部、次男藤兵衞ともに山內家より殺害すべし。如何す可き、と言ひしかば、宮田夜に入りて陸に上り、式部が乳母の子小原文右衞門と相謀り、難無く式部、藤兵衞を連れて舟に乘りければ、勝永悅んで船を出し、共に打連れて大坂に至れりといへり。