關ヶ原亂の後、毛利森とも記せるあり豐前守勝永は土佐へ流罪せられしに、大坂に事起ると聞き、或夜妻に言ひけるは、我罪有りて斯る所に居住し、汝にも斯く憂き事を見する事ぞとよ。されども我志有り、詞に表し難し、と語りければ、妻の曰く、世の變は如何なる人も計るべからず。斯く成り果てたりとも更に悲しむべきに非ず。妻は夫に從ふ道とこそ聞きて候へ。其御志を承らばや、といふ。勝永曰く、我武名を傳へて數世に及びぬるに、斯く沈み果てなん事口惜き事なり。命を秀賴公に奉りてんと思へども、我爰を忍び出でなば、憂きが上にも猶憂き事や御身の上に添ふらん、と泪を落しけるに、妻熟と聞きて打笑ひ、弓箭取の妻となりて爭でか斯る事を恐れなんや。早此曉船に乘りて武名を潔くし給へ。君の爲め家の悅び何事か之に如かん。妾が事な思ひ給ひそ。如何にもなり給ひたらば、此島の波に沈み候べし。運命目出度く頓て逢ひ奉らん。急ぎ給へ、と言ひければ、勝永悅んで小舟に取乘り、大坂に至り籠城しけり。其後山內對馬守より豐前が妻を固く縛め置き、斯くと告げられしかば、東照宮聞し召し、勇士たる者の志感賞すべき事なり。豐前が妻罪する事有る可からず、と懇に仰せ有りければ、豐前が妻大坂の城中に入りけるとぞ。