大坂冬の城攻に、興國公の攻口は天滿橋の邊なりしに、先陣の士大將波多野掃部、須加左京竹把を附くるに、兵少くして、夜にならでは如何にも調ひ難く候。日の中とならば兵を增し給はり候へ、と言ひしかば、其樣を見て來れ、とて芳賀內藏允先陣に行く。芳賀は茜染の羽織著たり。先陣の兵共家屋の燒趾土藏の蔭に控へ居て、橋より上に標の杭の候。見られよ、と言へば、芳賀進み行く。芳賀、近頃寵せらるゝ者ぞ。武者振見よ、と言ひ合へり。芳賀馬より下りて徐に川岸を步むを、城中より打出す鐵炮川水に響き渡れり。芳賀些とも騷がず足の數を數へて歸り、如何にも兵少くては叶ひ候まじ、と言うて旗本に歸る。此芳賀はもと祐筆なりしが、岐阜落城の日、國淸公勝軍の書を芳賀に書かせられし時、麓に將机に倚りて御座す。芳賀其前に跪いて在りしに、城中の燒きたつる火鹽硝の庫に入りて、其音山嶽の崩るゝが如く、敵押寄するかと騷ぎしに、芳賀が筆把りて書きし樣少しも駭く體無かりしかば、事に寄せて試みらるゝに器量大なりければ、頻に用ひられて祿二千石賜り、後國政を執りしに、度々直言を申し、諫め爭ひて事よく治りけり。