○塙團右衞門阿波の陣へ夜討の事
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團右衞門は遠江橫須賀の人なり。加藤嘉明に奉公して祿千石足輕を預りしに、關ヶ原の時嘉明塙に下知して、誘き來れ、と言はれしに、塙行きて見るに、諸將皆陣々を整へて控へ居たり。君命とは言へ共敵に後を見せん事口惜しく思ひ、種ヶ島の鐵炮を並べ散々に打立てて歸りければ、嘉明、汝は勇のみ有りて進退の理を辨へず。大將と成りて士卒を下知する事は思ひも寄らず。汝を遣したるは我過なり、と言はれければ、塙、敵弱ければ詮方無く、無理なる咎を蒙り候、とて夫より怨を含み、伊豫を出奔しける時、其家の中に、遂に不㆑留ら㆓江南の野水に㆒高く飛ぶ天地の一閑鷗といふ二句を大文字に書きたり。嘉明怒りて、塙が行先の奉公をかまはれしかば、塙所々にて落ぶれ、後には京の妙心寺大龍和尙の許に居て僧となり、名を鐵牛といふ。袈裟の上に刀を橫たへ鉢を招く。人或は憎み或は誹りけるが、遂に秀賴に招かれたり。
年十六歲已上五十已下の士八十人を選り出す。從者各一人と定めたり。塙と御宿越前と門口に鎗を入れまじへて一人づつ靜に出しけるが、鎗を取るとて從者を呼び騷しければ、塙怒りて、刀にてせよ、何鎗取る事やある。首な取りそ、敵の旗を始として武具を奪ひ取れ、と下知し、㗢と押寄せたり。蜂須賀至鎭の士大將中村右近白小袖を著、冑ばかり著て馳合せけるを、木村喜右衞門突伏せしに、稻田修理透間無く走り來り、木村と突合ひ、寄手駈集り防ぎ戰ふ。米田監物は池田左衞門督の陣所を押へ居しが、これも駈來り喚いて攻入りしか共、寄手追々に駈集りしかば引返す。生駒又右衞門首取りて大野主馬が許に持たせ遣り、猶進んで中村が倒れたるを見て、首を取らんとする所を、修理が子九郞兵衞十五歲なりしが、生駒を討取りたり。
此夜討の前、蜂須賀の士大將樋口內藏助、今夜夜討入るべし、といふ。若士共、如何して見定めたるや、と囁く所に、中村右近、餅を燒きて振舞はん、とて內藏助を傍に呼入れ、何とて夜討有るべきや、と問ふ。內藏助、さればとよ。城の橋殘らず燒落したるに、本町口の橋ばかり燒かざるは夜討すべき爲なり。今日狹間より外を覘き見る體見ゆる故、夜討入るべし、と答ふ。皆、さあらん、といふ。隣の陣小屋稻田修理に餅を振舞はんと云遣す。修理其儘來る。道は廻るなれば七八十間も有るべきに、疾く來られ候、といへば、修理、間の仕切の板ある所に藁を込み置きぬ。夫を外して來りたり、と答ふ。果して其夜半夜討入りたり。右近眞先に出づる。修理押續き出でたり。右近は冑ばかり著たるに、從者物具を持ち來りて著せたりとも言へり。右近刀を振り廻し敵の鎗を切拂ふ。修理大音あげて、右近と共に働き、右近は鎗七八本にて突伏せたりといふ說もあり。右近が子若狹は阿波の留守に殘し置かれしに、其宵に右近、修理に向ひて、若狹此度戰場に出でざる事を口惜く思ひ、度々來るべき旨言ひおこせしを、軍法を破る罪を恐れ呼び寄せず、と語る。修理、尤にてこそあれ。言ひ遣りて疾く來られよと告ぐべし、といふ。其處にて疾く若狹は陣屋近き邊に來りて匿れ居しかば、呼び入れて其夜手に逢ひたり。右近父は次郞左衞門とて、信長の扈從阿波守に附けられて、祿千石、士七十人添へられけるとぞ。
塙は兼て支度して、夜討の大將塙團右衞門、と書きたる木札を道々に撒せけり。和平の後今福口の南に、長二尺餘の木に塙團右衞門と書きて建てたりしを、人々怪み問ふに、塙、加藤嘉明我を憎み、探出して誅せんと言はれしと聞く故討手を待つ、といへり。塙が好有る面々數多訊ひ來りけるに、水野勝成の士黑川三郞右衞門尋來りしかば、過ぎし昔の交を思ひ出して來られしこそ悅びなれ。林半右衞門は日比親深かりき。如何にして一度の音づれもせぬにや訝しき、と言ひければ、黑川聞きて、林は池田の家に奉公して、今天滿橋の陣所に有り。斯くと尋ねて見ん、とて歸りしが、林に云々と言へば、林、さればよ。我塙と相約せしは、假令大國を領すとも手づから鎗を提げ、思ふ儘に軍せずば男子にあらじ、と言ひつるに、塙夜討せし時、橋の上に將机に腰かけ、馬印押立て麾を取りたりと聞く。年四十八、老たりと言ふべきにもあらず。昔相約せし詞に違ひたれば使をも遣さざりき、といふ。黑川又塙が方に行き斯くと語りければ、塙、林が言ふこそ理なれ。されども我嘉明に、士卒を下知せんこと思も寄らずと罵られし事口惜しく、一度麾を取り軍を下知して、嘉明に知らせばやと思ひて、其夜も手づから鎗を橫たへ、突いて懸度思ひしかども、さはせざりき。旣に志を遂げたれば、重ねて軍の有らん時には、鎗刀の折るゝ程戰はん、と言ひしとかや。