○孕石備前廣瀨左馬助討死の事
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宇治より伏見にかゝる道にて旗を張立てず。直孝、般若野宮內を使にして旗奉行孕石備前、廣瀨左馬助に、何故ぞ、と問ふ。二人承り、旗の事は此二人に任せられ候へ、と答へて押通る。直孝怒りて又使を立て、是非張立てよ、と下知すれども聞人れず1、伏見を過ぎて旗を張立てたり。此は宇治より伏見に行く道、東照宮の御座します所に向ひ奉るが故に、斯くはしたりしなり。五月七日、直孝御旗本の先陣として、天王寺の東北にて大坂七組の敵に向ひて相戰ひ、軍危かりしかば孕石廣瀨に向ひて、我年七十五、又恥を雪ぐべき時なし。討死せんと思ふなり。疾く引退れよ、と言へ共、廣瀨、士の恥は同じ事よ。孕石を捨殺し逃げたりと言はれん事こそ口惜けれ、とて二人共に旗竿に手をかけ討死しけり。廣瀨をば靑木が組の稻葉伊織討取りけり。廣瀨は美濃が子、孕石は主水が子にて、共に甲斐の武田の家の士なり。
- 誤植聞人れず — 底本「聞人れず」。「聞入れず」の誤植か。