郡主馬良利は秀吉の臣なり。石田權威を恣にせんと計り、人を馴けん爲に公用に金銀を出す事あれば、必ず其半を分けて密に私に與ふ。郡にも斯る事有りしに、爭ふならば禍に逢はんと思ひ、辱き由石田に謝して、其金は大坂の庫に納め置きけり。夫より病と稱して出仕もせず。後に旗奉行たりしかば、大坂落城の日千疊敷に歸りて床の上に旗を置き、去年の冬藤堂高虎天王寺に押入りし時、速水時之と謀を合せ夜討すべきを、寵臣に妨げられぬ。住吉平野の陣所に忍を入れ、火を懸けて不意に一軍せんと言ひし謀も用ひられず。運盡きぬると思へば口惜し、とて從者に、此小脇差は黑田長政我に贈られし時、用ふる事有りて功を立てんと言ひし詞ある故なり。よく長政に言ひて返し候へ、と遺言し、其子兵藏と共に自害す。行年七十一歲とかや。秀吉の時より黃母衣許されたり。