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○關ケ原御一戰御勝利稻次右近高名の事

拾遺 卷之二 第11話 · 段落 3 · NDL 1078984 398コマ L

人物地名家(氏)官職日付索引へ

慶長五庚子年關原御一戰、九月十五日其前日晝前に、大御所は赤坂へ御著陣被㆑遊候。晝時分に石田三成方より島左近、蒲生備中大將にて杭瀨川を越え、刈田誘引を掛け、其口中村一學陣取の際なり。竹田五郞兵衞二千石取一氏姪聟三間計の鳥毛の棒の指物にて陣所の塀を跳越え、治部が勢へ掛合ひ、三人鎗附候を鐵炮にて打倒し候。竹田が討たれ候を見て、中村が兵共柵を蹈破り爭うて駈出し候。野一色賴母金の三幣さしもの藪內匠推續き懸り候。治部方には水野庄次郞後號淺香左馬介林半介治部が使番伊前賴母などかれこれ五百餘進み候。備前勢には明石掃部宇喜田家老一萬石領す本田對馬守兩大將に稻葉助之丞不破內匠等、八百餘出候。石田が物頭島左近、蒲生備中、伏兵を木戶一色村の藪に伏置きて引き候により、中村が勢是を知らず、進み申さる處を打立て射立候と兩方堪へ鎗初り候。中村が內成合平左衞門一番やり仕り討死仕り候。首は猪尾甚太夫取り中村勢敗軍仕候。家老野一色賴母鳥毛二の團子の馬印を取りて、川の東に押立て、一足も引くまじく候。さて〱何も敗軍見苦しく候、と罵り候。藪內匠六千石取中村家老其脇を引て通り候。內匠に、何とて返し不㆑申や、と賴母言をかけ候。內匠振顧、手負候故返し不㆑申候、と斷り、川を西へ乘渡り候。服部小膳、高屋九兵衞、何も弓鐵炮のもの頭どもにて覺の兵にて候へども、押立てられて崩れ申候。野一色賴母は、金の三幣の指物にて馬を引返し數度戰ひ候を、治部少輔が內海北市郞右衞門鐵炮にて打ち申し候。賴母炮に當り馬より落ち則ち討死。其組子松村淸助、賴母が死體の綿嚙を取りて引ずり退き候へども、治部人數附立候故、賴母表帶を切り、刀脇差ばかり取りて退き申候。後にて賴母首は富村と申す兵取り申候。治部方多勢追重り候故、中村家人、中村新介、河毛新八、同次郞、原田梅津、天野、堀口等二十八人討死仕り候。甘利左兵衞は川中にて立合ひ防戰ひ候。鎗手二ヶ所負ひ退きかね候を、石田が兵共追附候。吉田左太夫返合せ追拂ひて甘利を退け候。中村並の陣は有馬玄蕃頭豐氏にて候。此合戰を見て、有馬が兵共數十人柵を越えて進み、稻次右近鳥毛半月さしもの、岡本五郞右衞門眞先に進みて川を乘渡し、治部力1の勢中村敗軍を追來り候。出合頭に致候。稻次右近馬を岸へ乘上候、と金の制札の頭上立物の兜著て、橫山監物と名乘り懸り候。右近と互に馬上にて渡合ひ、其後馬より下立ち組打ちになり、右近下になり申すを、右近郞等岸又左衞門、監物が鎧の綿嚙取りて引覆し候へば、右近上になり候。監物若黨駈附、右近が兜の錣に取附き引仰候を、右近振放さんと頭を振る處へ、右近が若黨駈附け監物郞等を切り候へば、右近が兜を放し拔合せ防合ひ申候。然る所へ堀尾信濃守忠氏の母衣の衆一人駈け來り、敵味方をも辨へず右近が若黨を味方討に致し、首を取り引返し候。其內に右近は監物が首取り立上り、監物が若黨をも切伏せ、其首を取り二つまで高名し、若黨が首をば鞍の鹽手に附け、監物首を奪附けて手に提げ、馬を靜々と步せ、中村が陣中を通りけるに、見る人譽めぬ者はなし。其場過ぎて備前秀家の家老明石掃部三百餘にて、池尻より福田繩手へ廻懸り來り候。中村一學人數亂れ候を、矢野助之進金の團のさしもの只一騎にて取て返し、大勢の敵へ立向ひ候。林文太夫赤母衣金の桔梗笠のも返し合ひ、傍輩の梅田大藏が深手負ひて退きかね候を助け退き申候。助之進屹と見附て、梅田を助け退け候はんより、此大勢の敵を防ぎ候へ、と言葉を懸けられ、文太夫は梅田を捨てて馬に聲をかけ乘出し、助之進も馬を蹈立て二騎連て掛入ると、明石掃部、蒲生備中が人數崩れ申候。兩人勝に乘つて追打候。赤坂御本陣より大御所御遠見なされ、大事の合戰を明日に抱へ、無益の軍致し人數を損じ申候。早々引揚げ連て戾り候へ、と事々しく御腹立なり。渡邊忠右衞門重綱金手桶のさしものを遣され候へども、敵味方喰止め別れかね候。大御所殊の外御怒りなされ、井伊直政兵部少輔猩々緋の羽織金の蠅取の馬印本多內記忠朝後に出雲守を御差添へなされ遣され候。直政、忠朝は中村の陣へ駈入り、早々引上申すべき旨申渡し候とき、矢野助之進、林文太夫敵を追立て〱戰ひ申候。直政乘附け、何とてみだるく仕候。早々引上げ候へ、と下知致され候。助之進、文太夫振返り、此所をば此兩人に御任せ候へ。兵部殿、內記殿には有馬玄蕃手へ御下知候へ、と申し捨て切懸り、遂に大垣方を切崩し、夫より敵味方入交り競合候。此時治部少輔が兵水野庄次郞鼦の皮の羽織、銀の大釘の立物の冑にて乘來り、中村母衣の者梅田大藏が手負ひて引兼ね候を、首を取り、大柿へ乘返り、三成隅矢倉に居候下へ參り、水野庄次郞にて御座候。高名仕候間御勘當御免下され候へ、と呼り候。治部少輔、如何にも心得たり。高名も見屆候間先手を賴み候。早々參り引取りくれ候へ、と申候に附、又庄次郞は先手へ參り候。此有馬玄蕃頭も田中兵部も、中村一學を助けて多勢にて懸り候故、秀家內稻葉助之丞金切さきさしもの治部が使番林半助乘下り〱殿仕候。明石掃部も堤を傳ひ乘上げ、馬に輪をかけ殿仕候。一旦村の籔の下にて中村勢有馬勢犇と附く處にて、牧野傳藏が兵共、又備前勢少々踏留り候。丹羽道監と石黑藤兵衞立堪へたり、見事に候。斯て日も暮れかゝり、井伊直政幣を取りて、中村有馬が勢を引上げて歸られ候。
  1. 誤植 — 底本「力」。「方」の誤植か(振り仮名「がた」)。
一說、中村が軍士等大垣勢に掛留められ、未堤の下に有りけるを、大御所本多中務太輔忠勝を召して、其方急ぎ馳越え中村が手の者を引上ぐべし、と仰せられ、忠勝頓て御前を退き、騎兵と足輕を相倶して株瀨川に到り、中村が兵士を引取らせ、忠勝は後殿して退きけるに、秀家、三成兩家の兵士猶喰留めんと勇みけれども、本多が繰引の列伍亂れざる故に、さすがひら附にもえせず扣へけるが、秀家の軍士稻葉助之丞金切さき枝釣の背旗さす三成家人林半助白しなひ指しもの兩人諸兵に先達て進み來り、忠勝が備に近附きて兩人ともに輪を掛くる。大御所之を御覽あつて、武者振見事なり、と仰せられしとかや。右の品實錄なりとて借求め見し故に爰に記す。然る時は、井伊氏此時の殿は相違なるにや、猶又尋ねて可㆓書改㆒か。
此時、大御所は赤坂岡山の本陣より御見物なり。井伊直政人數の擧樣中々足手を使ふ樣に下知して引取り候。能見物なり、と人々申し候。秀長、三成人數も漫々と棚引大垣城へ引入れ、其勢の內に白しなひ差したる武者一騎乘下り、見事に殿仕候。大御所白しなひ見事に候、と度々仰せられ候。此時中村が方究竟の兵士三十六騎討死、殊に一學家老野一色賴母討死仕る。味方へ討取り申候首は、有馬玄蕃頭內稻次右近が討取り候。橫山監物主從二人の首計なり。此時右近は御本陣へ參り候を、大御所御覽なされ、鳥毛の半月は先刻此陣下を通り、敵に向ひ候き。高名仕候や、誰が者と御尋あり。有馬法印御傍に居られ、同氏玄蕃家人、と申上ぐる。則ち首帳に附け申し、稻次申候は、我より先に首一つ持來りて候仁有り候や、と云ふ。筆者申候は、中々、堀尾信州の母衣の者首一つ持來りて帳に附け候、といふ。稻次承り、夫は我家人を味方討に仕候。其御帳を消し候ひて下され、と申す。則ち大御所御聞なされ、何事を申すや、と御尋ね被㆑成候。筆者承り、右近が申候通りを申上候へば、箇樣の打交り軍には、味方討にても高名になり候例もあれば、首帳消し申す間敷、と仰せられ候。此時堀尾信州方へ聞え、母衣十走の兵共敵味方見分ず、狼狽者母衣仲間には不㆓罷成㆒候。其儘御置可㆑有候はば、𦀸を差上候、と訴訟仕り候。堀尾帶刀吉晴聞き、尤に候、とて彼者の𦀸をば召上げ、仲間をはづれ加增をなし、弓二十人預り候よし。有馬玄蕃は、稻次右近高名を感じ、本地五百石の上に六千石加增を遣し、家老に致され候。先年肥前島原にて八十五歲にて討死仕候。