上杉浪人門田造酒之丞は、淺野采女正彈正次男左京大夫弟正則に奉公。彼の門田が物語に曰く、本條越前守重長は、越後本條城主大剛一の大將、上杉にては一二を論ずる程の武勇なり。永祿十一年本條越前守逆心するにより、輝虎直に出馬なり。飼附川を阻てて本條も出向ひ一戰あり。輝虎先手は上杉彌五郞義春、二の先は直江山城守兼續、三番は景勝十四歲鐵上野介、栗林肥前守介添なり。四番は謙信旗本なり。上杉彌五郞自身川へ乘入れられし故、毛蓑與十郞乘込む。一備一度に乘入候。本條重長人數も川へ打入れ、川中にて鎗を合せ數刻戰ひ候所へ、三の備景勝手脇へ押込み鎗を錫杖持して、勝つた〱、と聲をかけ、二千許眞黑になりて川上へ打入り、本條が前へ押廻し候に附、本條重長敗軍なり。重長乘下り〱殿して退く所へ、上杉彌五郞乘り附け重長に組まんと志し申され候。重長小高き所へ馬を乘上げ扇を開き、彌五郞殿さすがにて見事に候。去ながら最早御引取り候へ。深入召され候は越度を取り給ふべし、と云ふ。彌五郞本條に組むことならずして引返す。此本條は大力にて大男、度々の軍功數を知らず。國境なる故最上義光と取合ひ、庄內を過ぎ半切取り、天正六年謙信逝去候時景勝へ使を立て、上杉御家譜代の者にて候。輝虎公日頃こそ御意に違ひ弓矢に罷成候。上杉御家恨無㆑之候間歸參仕度し、とて景勝へ從ひ上杉三郞方を攻從へ、夫より今に恙なく奉公するなり。最上殿と千安にて本條戰の時に甲を切割る。此刀正宗なり。後秀吉公御代に伏見御普請に附、本條重長在京し勝手詰り、彼の刀を賣る。本阿彌取次ぎ、家康公へ被㆓召上㆒、本條正宗と云ふ。後は紀伊大納言殿へ進ぜられけるなり。又甘糟備後守は上田住人にて、是も小身より武邊にて成立ち、謙信祕藏の兵にて後は大身に取立てられ、景勝家にて本條重長と牛角の兵なり。景勝會津へ參られ、白石城主として五萬石下され候。福島城は本條重長、簗川の城は須田大炊なり。關ヶ原御陣なり。關ヶ原御軍の時、甘糟備後會津に暫く罷有候後にて甥の登坂式部逆心し、政宗へ白石城を渡し候。式部も政宗へ行き、夫より景勝無興して甘糟備後守を遠退け言もかけず。備後守も日陰者の樣になり罷り有候。家康公聞し召し及びたる大剛名譽の兵なる故に、御望に思召し、畠山下總守義直に仰遣す。景勝目見を惡ふ由、早々立退き御旗本へ參り候へ。二萬石にて召出さるべし、と仰遣はされ、京にて下總守方へ備後守を呼びて上意の趣を申渡す。本多上野介正純書狀まで見せ候へば、備後守頭を地に附け、景勝目見惡ふは拙者の不調法にて、少も恨御坐なく候。假令何樣に致され候とも、譜代の主に候間御免下され候へ。上意は有難く存じ奉り候旨、淚を流し申候。其段達㆓上聞㆒候へば、其忠義信の所にて猶惜き兵なり、と仰せられ候。畠山に逢候事何として漏聞え、景勝愈不興して、我に隱れ畠山方へ行くこと言語同斷、とて愈甘糟はをしみ申され候。備後守死去、子供には跡式申附けられず、津輕へ浪人仕なり。右兩人の外に大剛の者主大將分の者多し。千坂對馬守、是は上杉四家老の一つなり。見事なる士にて何方へ大事の使に越候ても、一かど埓明べき仁體なり、分別者なり。岩井備中守は、謙信小姓立にて見事なる男、武邊度々あり。分別辯舌兼備り、名高き兵にて殊に茶湯者なり。安田上野介は小男なり。手疵有る故少し足を引き、眼ざし光ありて、何者が見及びても剛の者といはぬ人なし。中々するどく氣高き士なり。杉原常陸は、武邊かさ有りて平人にあらず。分別了簡大にして軍功數度あり。絲くみの指物をさす。直江山城守は大男にて、百人にも優れたるもつたいにて、學問詩歌の達者、才智武道兼たる兵なり。恐くは天下の御仕置にかゝり候共、あだむまじき仁體なり。島津下々齋是は戰功武功肩を並ぶる人なし。其外能士多く有りしかども、今は早殘らず死に果てて、二代三代に及びたり、と門田物語なり。