芳賀內藏允は、小身の比國淸院樣池田三左衞門參議輝政卿の御祐筆なり。國淸院樣、美濃國岐阜の城を御攻落しなされ、權現樣へ御勝軍の御注進狀を內藏允に仰せ附けられ、御書かせなされ、御牀机に御座なされ候節、城中の鹽硝藏に火入りて、藥飛び出でける音夥しき事にて、山の崩れかゝるが如く、人々大に驚き騷ぎ狼狽へしに、內藏允見向もせず、少しも駭く體なかりしかば、國淸院樣內々感じ思召し、色々御試みなされ候に唯者ならざりしかば、知行二千石下され御寵愛あり。大坂陣の時、天滿橋御攻口なりしに、御先手須加左京竹束を附くるに、御人數少く候。御加勢下され候へ、と申上げしかば、內藏允に、見分仕候へ、と興國院樣松平武藏守利隆朝臣仰附けられたり。內藏允茜染の羽織を著て、馬に乘り行きて見分せしに、燒跡の土藏などを楯にして扣へ居たり。橋より上に印の杭の候。見分せられよ、と云ふ。內藏允、心得候、とて行くを、內藏允は近頃取立てられて、出頭の者なり。祐筆だけの武者振見よ、と囁き合ひて居たり。內藏允馬より下りて閑に川岸を行くを、城中より鐵炮を打懸くる。水に響きて殊に烈しく聞ゆれども、內藏允ちつとも騷がず、足數を數へて歸り、如何にも各達の申され分の通りなり。申上ぐ可し、とて御旗本へ歸りけるとぞ。後番大膳と兩人に御仕置仰附けられしに、大膳は遙に劣りてけり。願ひ申す可き品有りて大膳に言達しければ、事能く濟むやうに答へけれども、興國院樣の御前にては十分に事の譯を得申し述べず。又內藏允に言達すれば、內藏允色を變へ、左樣なる事旦那へ申さるゝものに非ず。拙者は得取次致さず、と荒らかに申し切つて、御前へ參りては事の子細を申上げ、御聞入れなき時は烈しく御競合を申し、是非とも願の如く埒を明けて後其人を呼び寄せ、中々御聞入れあるべき事にてはなけれども、申上げたれば、御上の御慈悲にて御聞屆ありたるぞ、と申聞けけるとなり。それのみならず、度々御前へ御諫を申上げ、爭ひ申す事幾度といふ事なし。後には是を聞傳へて、內藏允御爲を思ふ事、大膳が及ぶべきに非ず、と賞美しけるとかや。されば是を以て案ずるに、大膳が權現樣の御前にて、命を棄てて申開致せしは一旦の事にて、仕能き事なるべし。國の仕置は極めて大事のものなれば、大膳が一旦の骨折とは比ぶべくもなき內藏允が忠なるべし。