左中將兼美作守源忠政は、三左衞門尉可成が六男、舍兄武藏守長一が嗣なり、はじめ陸奥守義家朝臣の六男、森六郞義隆の末葉、美濃の國の住人森左衛門尉泰家、當國の守護土岐伯耆守賴貞に屬せしより、累代の子孫、彼家の被官たり、天文年中土岐兵部大輔定明が亡ひし時、泰家九代の孫左衞門尉泰政1戰死す、三左衞門尉可成は泰政が嫡男なり、可成初め齋藤山城入道道三に仕へ、其後織田上總介信長の家人となりぬ、織田殿美濃の國を從へ、今川の多勢を破り、義元を討ち、武威を近國に奮ひし事、偏に可成が謀ゆゝしきに因る所なり、元龜元年九月坂本の合戰の時、一戰に利を失ひ、忽に討死す、彼の二男武藏守長一、初め勝藏父に劣らぬ剛の者、十六歲にり軍して、度々の高名を顯はし、當時京家の輩は、鬼武藏とぞ名付たる、甲斐の武田が亡ひし時、長一先陣を承る、信濃甲斐上野等の國々打從へ、信濃の更級高井水內埴科四郡を賜て、海津の城を築く、前亡の餘類、こゝかしこに蜂起したるを押寄せ押寄せ打破て、首三千を斬て、織田殿へ參らす、舍弟蘭丸美濃の國岩村の城を賜ふ、五万石是れしかしながら、父可成が舊功に報ぜられし故なりけり、此年信長討れ給ひし時、蘭丸坊丸力丸三人の兄弟、一所に討死す、武藏守此由を聞て、急に都に馳せ上り、明れば天正十一年羽柴筑前守秀吉、越前の柴田を滅し、美濃の屋形を三七信孝失ひまゐらせ、美濃の國金山の城を長一に與ふ、十二年の春、秀吉また北畠殿失はんとす、長一が身池田紀伊入道勝入これに組す、長一同く秀吉の方人して、三月十七日、尾張國犬山の邊羽黑といふ所にて、德川殿の先陣酒井左衞門尉忠次等と戰て、散々に打なさる、長一口惜しき事に思て、速かに討死して、此度の恥、雪かん者をと思ひ定め、舍弟千之助、世嗣たるべき由、一封の書に記し、秀吉の方に殘して、四月九日長湫の戰に討死せり、後秀吉此書を見て、さては兼てより、我が爲に死を決してけりと、深く感じ、遺言に任せて、舍弟に家繼がせ、羽柴を名のらせ、右近大夫になし、忠政とめす、明れば十三年七月、自ら關白せし時、忠政にも侍從させ、我姪を以て彼妻とせらる、同十八年、信濃國川中嶋の城に移る、十二万石太閤薨じ給ひし後、大坂の奉行等、窃かに軍勢を催し、德川殿のまします伏見の御舘を襲はんとす、德川殿の方にも、餘多の大名、馳集て御館を守護し參らせんとす、斯ては中々世の騷ぎとも成るべしとて、まづ人々をば歸さる、忠政一人、人々に後れ、遠侍に伺候して、己が舘には歸らず、德川殿此由を聞召し、重ねて御對面あつて、其志を感じ給ふ事淺からず、程なく東西の軍、一時に起りし時、忠政初め東國に馳せ下り、又引返し、中納言殿の御供して山道を上り、眞田安房守昌幸を防がんがため、本國に留る、慶長八年二月六日、美作の國を賜て移る、十八万六千五百石大坂前後の軍に從て、打取る首二百六つを獻る、其後美作守に任じ、本姓に改め森と名のる、寛永三年八月十九日、左中將になさる、少將を歷たりしにや、其事武家補任には見ねず、同十一年六十五歲にて卒す、嫡子大膳亮重政、二男虎松丸、三男右近大夫忠廣、皆悉く父に先立ちて卒す、忠政、外孫內記を養うて嗣とす、侍從長繼則ち內記忠政の外孫にて、家人關民部成次が嫡子、外祖忠政の嗣となり、寛永十一年從四位下、十七年侍從、延寶二年四月廿六日家を讓る、嫡子從四位下美作守忠繼、家繼ぎし年、三十八歲にて卒し、其男万右衞門と申幼けなかりしかば、成長の程、忠繼の弟伯耆守長武、權に國の事を行ひ、延寶二年十二月侍從に任す、
- 左衞門尉泰政 — 底本のまま。(この頁の2か所)森可成の父は通説では森可行(越後守)。「泰政」という名は未確認