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金森

第九上 · 段落 2 · 780524 44コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

人物 20 9 8 6 4 4 4 3 3 3 2 2 1 1 1 1

地名 4 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

出雲守源可重は、美濃國の住人五郞八長近入道素玄が養子也、可重が父の名は詳ならず入道初め織田殿に仕へ、此處彼處の戰に、度々の高名を顯す、天正三年八月、終に一方の大將を承り、原彥四郞と同く、越前國に發向す、美濃の郡上の郡より、德山を越て、大野郡に打て入る、數箇所の城を攻め落し、多くの敵討取て、諸手の寄手、一同に國中に亂入る、賊徒悉くに平げゝれば、其賞として大野郡を分つて、金森原にぞ給はりける、三つが二つ金森に、一つを原に給ひし也是よりこのかた、北陸の軍は云ふに及はず、畿內山陽の戰に隨はずと云ふ事なく、同十年二月、三位中將殿、甲斐國に攻入り給ひし時、長近三千人を引率して、越前國を立て、甲斐國に向ふ、此年六月、織田殿父子打れ給ひし時、長近が二男忠三郞長則、生年十九歲、信忠卿の御供して、二條の御所にて、腹搔切て死してけり、幾程なくて、柴田羽柴、不快の中と成て、旣に軍起らんとす、長近前田不破の人々と兩家の中直したり、明れば十一年二月、勝家秀吉の兵、終に起て、近江國志津嶽にして、戰を合す、北陸道の人々、皆勝家にぞ組しける、斯て勝家滅て後、長近可重終に秀吉に從ひ、同十四年、飛驒國を領し、高山に住す、二万八千石を領せしと也これ年比の軍功を賞せられし所なり、其後、長近が父子、東西の軍に隨はずと云ふ事なく、長近さる古兵なりしかば、入道の後兵部卿法印に成されて、常に關白の御側に侍ひ當時御咄の衆と云、其入道せし事、何れの比にや詳ならず又德川殿にも、親しうこそは參りけれ、されば太閤薨し給ひ、彼家の奉行人、德川殿を失ひ參らせんとする事、度々に及ひしに、常に德川殿の味方に參り、慶長五年の秋、入道可重打連れ、德川殿に隨て、奧に向ふ、上方の軍起りぬと聞えしかば、可重本國に馳せ歸り、美濃國に向て軍し、父入道は、德川殿の御供し、海道より攻上る、關が原の合戰終て後、父子の功を賞せられて、新恩の地を加へらる、濃州上有知關、河州金田等、一万石の地を加へ賜ふ、飛驒國は云に及はず總て三万八千石なり入道年積て八十四歲、慶長十二年八月十二日に卒す、其所領の地を分て、二人の息に賜はる、出雲守可重、初め長近に養れて、織田殿に仕へ參らせ、其後秀吉に屬して、父子同しく此所彼所の戰に從ひ、關が原合戰の時、美濃國郡上の城を攻落し、父の入道卒して後、飛驒國を賜はる、大坂の軍起りし時、可重が男長門守重賴、馳せ向て、城を攻む、再ひ軍起りしには、先づ和泉國岸和田の城を守る、大坂の戰、既に敗れて落ち來る者共、二百八人が首を切り、八人を生捕て獻る、此年元和元年閏六月三日可重年五十八歲にて卒し、三男長門守重賴家を繼き、出雲守に任す、初め重賴、幼時より德川殿に近侍し、慶長十八年叙爵して、長門守に成され、大坂の兵起りし時、御陣に隨ふ、尾張國名護屋に御陣を召されし時、美濃國にして、新恩の地を賜はり、關吉田等三千石の地再ひ軍起りし時にも、大御所の御陣に從ひ、父卒するに及て、家を繼く、慶安三年閏十月七日五十七歲にて卒す、其子長門守賴直、寛永二年十一月十二日叙爵し、重賴卒して家を繼く、頭の毛禿なりければ、望み乞て剃髮し、立軒と號し、寛文三年二月廿三日の事なり寛文五年七月十八日、四十七歲にて卒す、其子飛驒守賴業、家を繼く寛文十一年十二月廿八日に卒す、二十四歲、其子萬助賴時、七歲にして父に繼く、
五郞八長光は兵部卿法印素玄が次男也、初め法印、五郞八長近と申せし時、出雲守可重を養て子とす、其後一人の男子を設く、忠三郞長則是なり、後に及て、又一人の男子あり、法印が死せし後、大御所、駿河國に召れて、始め法印に賜はりし美濃河內等の所領を分ちて、彼が幼息に賜はり、五郞八長光とは申けり、濃州關上有知、河州の金田等總て一万石の地慶長十六年八月六日、長光世を早うして、世嗣なければ家絕えたり、時に長光六歲也といふ