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九鬼

第九上 · 段落 8 · 780524 41コマ Lから

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この家によく出る人物・地名

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地名 7 4 4 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

守隆八代の祖隆良が時に當りて、志摩國英虞の郡に押渡て、石川七嶋の輩と戰ひ、終に波切田畔立神等の地を打隨ふ、其孫大和守隆次、又答志の郡を合せ領し、其子山城守泰隆が時、始て加茂の鄕田城の城を構へて住む、伊勢國司の方人して、山田の神官と戰ひ、戰功を致しければ、其賞として、國司より二見七鄕の地をぞ、たぶたりける、其子宮内大輔定隆、其嫡子宮内少輔淨隆、二男右馬允嘉隆、是後に大隅守が事なりけり、淨隆が時に至て、七嶋の輩、北畠殿則伊勢の國司加勢乞て、九鬼が田城の城を攻む、淨隆が武勇いみじきに依て、終に城をば落されず、戰の中にぞ死したりける、其子彌五助澄隆、叔父嘉隆と共に田城の城に籠つて、防き戰ふといへども、多勢に無勢、叶はずして、朝熊岳に落行く其後合戰度々にて、再ひ田城を攻取て、幾程なくて死しければ、右馬允嘉隆、家繼き、伊勢の國に取つても、南方九頭の中となり、鳥羽の城にぞ住けしる、去程に、織田上總介信長、伊勢國を隨へんと永祿十二年の秋、尾張の國を立て、大河內の城に發向す、右馬尤1嘉隆等、國司に背き、織田殿に組みす、北畠の軍、利なくして。權中納言具敎卿、信長に中直りし、織田殿の二男を養て、其家を讓らる、北畠前內府信雄公と申し、此時は茶筅御曹司と聞えし御事なりけり、斯て嘉隆、信長に隨て、高名又度々に及べり、天正二年、伊勢國長嶋の城に向ひ、海路より攻入て、敵を破り、同き六年の秋、攝津國大坂の城を攻らる、嘉隆軍勢を率て、大船六艘小船餘多に取乘り、伊勢浦を押出し、紀伊の國熊野の浦に差懸て、雜賀の人々と船軍し、兵船三十餘艘を奪取る、和泉の國堺の浦に至て、四國九州の輩が、大坂に往來せし海上の通路を差塞く、同き十一月六日、西國の兵船六百餘艘、木津浦に寄來る、九鬼兵船を揃て、乘り向ふ、陸に陣せし御方の人々、波打際に滿ち〱て見物す、手合の戰、九鬼負色になつて押戾す、陸の人々、是を見て、あはや負色しつと、片唾を呑て見る所に、追ひ來る敵船、近寄せて、六艘の大船より、大鐵砲いくらともなく、揃て只一同に打出す、六百餘艘の船共、忽に打碎かれ、散々になつて逃け散れば、信長の御感、大方ならず、信長うせ給ひて後、北畠に背き、秀吉の方人して、尾張の國蟹江の城を取り、大野の城を攻む、德川殿の御勢に、打破られて引退く、關白四國九州を攻め、朝鮮を討ち給ひしにも、常に海路の大將を承る、太閤薨し給ひし後、慶長四年の夏嘉隆、稻葉藏人道通と、相論の事起て、德川殿の御裁斷を仰く、嘉隆が申す所、その謂れなき由を仰下さる、嘉隆大に怒て、息男長門守守隆に家讓て引籠る、明れば五年の秋、長門守守隆、德川殿に隨ひ、奧の御陣に馳參る、かゝる所に、上方の軍又起る、石田三成、嘉隆日でろ德川殿を恨み參らする事を、知てければ、頓て彼に牒狀す、嘉隆まづ子息が鳥羽の城を奪ひ、賊船を催し、東海の津々浦々に押入て、兵粮おし取て、美濃尾張の城々に籠め、紀伊國新宮の住人堀内安房守氏喜を呼迎へ、鳥羽の城を守せて、我身は稻葉藏人が岩出の城に押寄たり、長門守守隆、東國の味方として、夜を日に繼て、本國に馳歸り、鳥羽の城に使立て、言を盡して請けれども、城をば終に返されず、守隆力及はずして畔名の古城に要害を搆へ、父子東西に相別て、日夜にこそは戰ひたれ、氏家內膳正純利、桑名の城より打出て、畔名に押寄す、守隆、氏家を打破り、首餘多切て、關東へ參せしに、中泉の御陣に到來す、これ此度德川殿西に向はせ給ひし後、初度に獻る首なれば、御感尤も淺からず、關が原の合戰、上方の軍悉くに破れしかば、嘉隆新宮に伴ひて、紀伊國へぞ落行きける、長門守守隆、鳥羽の城に入て、頓て大坂に趣き、德川殿に見參し、池田輝政に付て、守隆が勳功の賞に、申替へて、父が首つがん事を訴ふ、御免なかりければ、輝政又福島左衞門大夫正則と相謀り、重て二人一所に歎き申さる、さらばとて、大隅守嘉隆が死刑を宥められし上、守隆所領の地餘多加へたぶ、二万石を加へられ、本領合て五万六千石守隆歡ふこと、限りなく、頓て新宮に使たてゝ、此由かくと告げけるに、嘉隆自ら首はねて、死したるこそは無慚なれ、年五十九歲
  1. — 底本のまま。「右馬允」の誤植とみられる
世に傳ふる所、嘉隆自害しける事は、初め長門守守隆、奧の御陣に隨ひし時、家のおとな豐岡五郞右衞門と云者して、鳥羽の城を守らす、嘉隆が石田に組して、城奪はんとせし時、豐岡も、さすがに敵し難くて、嘉隆にさけわたす、凡そ兵の城を守ると云ふは、かゝる事の爲にこそあれ、如何に主君の御父なりとも、餘りに穩便なる豐岡が振舞かなと、傍輩打寄々々爪はじきしけり、此を口惜しとや思ひけん、嘉隆が在かを、忍ひ〱に尋ぬるに、熊野の奧に隱れ居たりと聞て、新宮の城に行向ひ、安房守氏喜に附て、長門守殿、內府に御歎きあつて、此度の賞に申替へて、嘉隆の罪、宥められ、某急き參り向ひ、御供申すべき由の御使に、來り侍ると申しければ、嘉隆運や盡きたりけん、やす〱と、たばかられて、豐岡を具して、本國に趣く、豐岡は道にて嘉隆に向ひ、誠は君の御事、内府の御憤、殊に深く、當家旣に亡さるべきに事定て候、あはれ如何にも御計らひあつて、御子孫の後榮を期し給ふべしと云ければ、嘉隆さらば我首取て、德川殿へ參らせよとて、腹切てければ、豐岡首取て歸るとて、伊勢の明星の茶屋にて、嘉隆の罪、御赦免の御敎書に行逢ふ、豐岡按に相違して、以の外に驚きしが、さらぬ躰にもてなし、守隆に參て、某熊野に參じ、大隅守殿の御供仕るべき由を申て候に、いかに親子の中なりとも、一度敵と成て、生て再ひ對面に及ぶべき事、叶ふまじき由、仰せ候ひし程に、何か苦しう候べきと、樣〱に諫め奉しかば、さらばとて、歸らせ給ひしが、既に本國に近づかせ給ふに付ても、猶御心の中や解け給はざりけん、密に御腹をめされて、後某を召し、御首を賜はるべき由を、仰せ候ひしかば、力なく仰に隨て候と、誠しやかに語て、父が首を差出しければ、長門守も、大にあきれて、せん方なく、德川殿へ此由を申て、父が首まゐらせけり、德川殿も不便の次第なりと、仰ありて首をば返へし下されける、年經て後、豐岡が所爲、悉く顯れしかば、守隆大に怒て、重科に處したりと云ふ、
同き十九年の秋、大坂の軍起ると聞えしかば、守隆兵船に取乘て、本國を立ち、十月十九日、攝津國に押渡て、大船五艘小船五十餘艘、川口を差塞て、諸國往來の船を禁じ、大坂の番船共奪取り、野田福島の要害を攻め破る、守隆年六十歲、寛永八年九月にこそは卒しけれ、日未た聞かず守隆男子四人あり、嫡子志摩守良隆、慶長十七年七月晦日良隆駿河に參り、初て大御所に見參し、來國次の御刀を賜し事、家忠日記追加に出つ二男長助貞隆、二人ながら、父に先立て死してけり、三男式部少輔隆季、四男大和守直隆、嫡男志摩守良隆、男子なかりしかば、大和守直隆を世嗣として、其家を傳へけり、其系圖に出つ
式部少輔藤原隆季、長門守守隆が三男、父が遺言に任せて、所領を分ち給ひ、一万石寛永十年、所領の地加へ給ひて、丹波國何鹿の郡漢部に移る、一万石を加られ合て二万石を領す○按するに、是等の說に依て見る時は、慶長五年、守隆に賞加へられしは、一万石の地にや、世には二万石を加へられしと云ふ覺束なし、隆季卒して、後其子大隅守隆常、家を繼く