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南部

第九下 · 段落 6 · 780524 58コマ Lから

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信濃守源利直は、刑部亟義光の新羅三郞曾孫、信濃守遠光が加々美二郞三男、甲斐の源氏南部三郞光行が後胤、大膳大夫信直が男なり、光行が後、代々鎌倉殿の御家人として、九代の孫右馬頭茂時が代に當りて、正慶二年五月廿三日、相摸入道平高時が滅ひし時、鎌倉にて自害しぬ茂時が子伊豫守信長、其子遠江守政行、尊氏將軍の御敎書賜て、本領を安堵す、此御敎書一通、今に子孫に傳ふと云ふ政行が子大膳大夫守行入道禪高、應永の亂に、鎌倉殿の御方として、最前に馳せ參り、軍忠を致しければ、持氏の御感淺からず、御下文を賜て、陸奥の國司に補せられたり、持氏の御下文、今に子孫に傳と云以上其家の系圖に見えし所也
按ずるに、この時より陸奥に下りしか、また元より奧を領せしゆゑ、斯く御下文を賜りしにや、或書に、鎌倉殿、奧の泰衡追討の時に、南部三郞光行、軍功ありしかば、奧の糟部1の地を下し給ふ、本領の名に因りて、こゝをも亦南部と名付けたりと云ふ、されども、この事系圖にも、又東鑑にも見えず、また覺束なく思ふところもあれば、本文には略して爰にしるす、〇初め加々美遠光の三男光行、甲斐南部の地頭職たるに依り、南部三郞とは名乘しなり、其後陸奧の國に移れる事、何れの代なると云ふ事、詳ならず、按ずるに南部記に興國三年八月奧州宮方伊達宮內少輔行朝、石川石橋河村田村南部滴石の輩、斯波岩手の兩郡へ攻め上りて、朝敵稗貫出羽守、并に其一族を誅せし事見え、又岩城飯野社古文書には、貞和五年六月、奧の管領吉良左京大夫貞家、糠部滴石以下、奧方の凶徒、退治の爲に發向の事見ゆ、糟部と云2ひしは、今の五戶六戶など云ふ邊にして、此時南部既に其地に在りしかば、或は南部とも云ひ、或は糠部とも云ふ、滴石とは、今の戶澤の家祖の事を云ひしなるべし、又今其家の傳ふる所を聞くにも、其祖初め三戶の地に來りしを、國人蛇沼日澤二人の者共、迎て終に家を起せし事に因りて、年毎の元日、先づ二人の者共の子孫に對面して、後に一族家臣等、年賀の事ありと云ふ、彼是を併せ考ふれば、正慶二年の夏、右馬頭茂時、鎌倉にて死せしより興國貞和の頃に至て、僅に十餘年なり、思ふに、茂時死せし後、其子伊豫守信長、密に東に遁れ、幾程なく、世又亂れしかば、奧の宮方に隨ひ、糟部等3の地を取て、家起せしならん、其子遠江守政行が代に及び、奧の宮方既に亡ひぬれば、將軍家に屬して、本領を安堵せし事と見えたり、又其家に云傳ふる所、南部の家紋は、もと菱なり、大膳大夫守行、或時秋田城之介と戰ふに、二羽の鶴飛ひ來て、味方の陣に双ひ舞ふ、此日の軍に討ち勝て、悅ふこと限りなく、割菱の紋を改て、一双の舞鶴を、幕に付けし由、系圖に見ゆ、
  1. — 底本のまま。「糠部」の誤植とみられる
  2. — 底本のまま。「糠部」の誤植とみられる
  3. — 底本のまま。「糠部」の誤植とみられる
其子南部庄司義政、永享十一年、鎌倉の合戰に、大手を攻め破て普廣院殿の御感に預り、黑母衣を許さる、義政より九代、右馬允安信、男子五人あり、嫡子彥三郞晴政、二男石川左衞門尉高信、三男南部遠江守、四男紀伊守、五男靱負尉とぞ申ける、嫡子晴政が子彥三郞晴繼卒して、其嗣なかりしかば、左衞門尉高信が男大膳大夫信直を以て世嗣とす、天正十八年に至て、豐臣關白、北條を亡し、奧に下らせ給ひし時、信直御陣に馳せ向ひ、見參して、本領を安堵す、此時關白、來國次の脇指、并衣服等と賜と云ふ
或記に曰く、此時に至て、南部が被官津輕右京亮爲信を初て、九戶修理亮政實等が、主に背て、國中常に靜ならず信直日々に、逆臣に逼られて、今は田子と云ふ城一つを守り居て、國中の事をだに知らず、まして遠き境の事は、夢にだも知らず、斯る所に天正十八年の春の末、都三條の邊に住む鷹商人清藏と云ひし者、南部に下りて、扨も殿は未だ知召されずや、當時天下を知召すは、豐臣關白秀吉公と申せし御方にて、關東の北條が、王命に隨はぬを、征伐し給ふべしとて、天下の軍兵を催して、攻め下り、今は相摸國に御陣を召され候なり、北條の亡ん事は、日あるまじ、其後は直に奥方にも、御下向あるべしと承る、急き御方に參らせ給はゞ、當家の繁昌、御子孫の御行末、目出度こそ候べけれと、申ければ、信直大に驚き、扨は今天下は既に定りしにや、さらば、その秀吉殿へ、參らざらんには、當家の行末、賴母しからず、又參らんとせんには、其隙を窺ひて、國中の逆徒等に、國を奪はれんこと、踵を旋らさじ、如何はせんと案じ煩ふ、商人重て申やう、さらば先づ御家人の中を擇はれて、御使を參らせられ、御方に參り給ふべき由を、仰せらるべうもや候はんと、ありければ、此義尤も然るべしと、家の子郞等の其中を、一々に擇ひしに、極て頑なる田舍人、鎧着太刀佩て、馬乘たるには、似も付かず、立居振舞の無骨さは、さもありなん、物云ひ、鼻よりうめき出て、世の人、聞分くべしとも、覺えねば、此も叶ふべしとも、思はれず、あきれ果て居たりしかば、清藏此上は、何か苦しかるべき、某御使と名乘て罷り向ひ、爰許の有樣、一々に申し、又殿の思ひ給はん樣を、有の儘に申上け、御領安堵の御敎書、取て參らせんと云ひければ、信直大に悅ひ、是に增したる事あらんと、彼の商人を使者として、當國の土產なれば、屈竟の逸物の馬共率かせて、相摸國へぞ上せける、南部が使、御陣に參りて、信直が參らざる趣を初めとし、津輕九戶等が事、一々に述べたり、關白殿聞き給ひ、國中の逆亂に依て、道既に塞りたるに、早々使を奉る事、神妙なり、南部が累代傳領の地、安堵の事、子細あるべからず、又家人等が逆威を振ふこと、甚以て奇怪なり、如何にもして、信直が城を守りて、秀吉が下向を待つけよと仰せありて、使をば返へされたり、信直悅ふこと限りなし、北條亡ひし後、同年の八月十日、關白殿、陸奥に御下向ありしかば、信直頓て御陣に參る、津輕の地は、最初に右京亮爲信に賜ひし上は、南部に返へし附けらるゝに及はずと云ふ、
明れば十九年の夏の頃、家人九戶諸記に修理政實と見ゆ蒲生の記には右近とあり櫛挽將監等を初として、家の子郞等數多、信直に背き、此所彼所の溢れ者、招かざるに馳せ集て、既に多勢に及び、信直戰ひ勝つことを得ず、急き早馬を都に參らせ、此由を申す、三好中納言秀次卿を、大將軍として、數多の軍勢を差向けらる、德川殿にも、向はせ給ふ程に、井伊兵部少輔直政、先陣をうつて馳下る、蒲生飛驒守氏卿2は、去年奥十二郡を賜て、當國の鎭守を承りしかば、諸軍に先立て馳せ向ひ、姉帶一書に穴田井禰曾利一書に根由利二つの城を落し九戶の籠つたる福岡一書に糠部の城に押し寄す、關白殿の御勢、德川殿の先陣を始として、南部津輕松前の軍勢馳せ加り、入替々々攻めし程に、同九月、城終に攻め破られ、九戶櫛引降人に成て出つ、秀次の御陣の邊に、參らせて、一々首を刎ねたりけり、朝鮮の軍起りて後、軍勢の催促に隨ひ、信直筑紫に馳せ參る、年五十四歲にして、慶長四年十月五日に卒しけり、信濃守利直、父に繼く十石万1幾程も無くて、慶長五年の夏、德川殿會津の中納言景勝を御退治あるべきにて、南部津輕秋田山北の人々は、出羽守義光に隨つて、軍すべき由、仰せ下さる、信濃守利直、軍勢を率ゐて、最上の郡に馳せ集る、斯る所に、石田三成が催促にて、上方に軍起り、德川殿既に討れ給ふと聞えしかば、此程馳せ集りたる奥方の軍勢、義光に暇をも乞はず、我も〱と遁け歸る、利直斯ては、國中の事、覺束なしとて、是も同じく引て返る、案の如く、明る慶長六年、岩崎と云ふ所に、凶徒蜂起し、利直馳せ向て戰ふ、時既に冬に至り、風雪殊に甚しかりしかば、引返へし、七年の春、再ひ軍起し、戰ふこと程を經て、終に悉く平けぬ、同き十七年、利直關東に伺公せしに、十二月廿日、將軍家、彼の家に成らせ給ひ、物多く下し賜ひ、奉るもの、又少からず、十九年の冬、大坂の軍起りし時、將軍家の先陣して、馳せ登る、明れば、元和元年の夏、再ひ軍起りしには、程遠ければ、軍散して參る、寬永三年八月、從四位下に叙し、同き九年八月十八日、五十七歲にて卒す、嫡子山城守重直、家を繼き、寛文四年九月十二日、五十九歲にて卒す、嫡男兵五郞早世したりしかば、堀田加賀守正盛が三男を內藏助正勝と云しなり養て、子とせしに、是も早世して、世嗣とすべき子なかりし程に、舍弟等に所領を分ち讓る、大膳大夫重信、利直が二男重直が弟なり初め七戶の家を繼き隼人と申せし也兄重直が家を繼ぐ八万石重信が嫡子信濃守行信、其餘の男子猶多し、
  1. — 底本:配置のまま。割注の文字配置が乱れた底本の組版の乱れとみられ、「十万石」の意の可能性がある。未確認
  2. — 底本のまま。「蒲生飛驒守氏鄕」の誤植とみられる