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溝口

第九上 · 段落 6 · 780524 56コマ Lから

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伯耆守源秀勝は、尾張の國の住人、溝口彥左衞門尉勝政が男なり、昔し逸見又太郞義重、承久の頃、美濃國大桑鄕の地頭職に補せられしより、子孫代々、彼國に在り、其後尾張國に遷て、溝口の地に住せしより、溝口とは名乘れるなり、秀勝未だ竹丸と申して童なりし時より、丹羽五郞衞門尉長秀に仕へ、元服の後、金右衞門尉と名のる、天正九年四月十六日、計らざるに織田殿に召出され、御家人に連り、若狹國高濱の城を賜り、彼國の目代になさる、
明れば十年六月、織田殿討れ給ひ、同き十二年の春1、近江國志津が嶽の合戰敗れて、柴田修理亮勝家、越前の國に引返へす、筑前守秀吉、續て攻め入り給ひしに、秀勝手勢引具し、敦賀の津にて、秀吉の御手に馳せ加り、先駈して戰ふ、頓て其賞行はれて、加賀國大聖寺の城を領し、四万四千石又伯耆守に任し、從五位下に叙す、
  1. — 底本のまま。志津が嶽(賤ヶ岳)の戦いは通説では天正11.4(1583)
天正十四年、從四位下に叙し、豊臣姓を賜はる、慶長三年、越後國新發田の城に遷さる、五万石同き五年の秋、東西一時に軍起りし時、當國は陸奥に隣て、大事の所なれば、秀勝德川殿の御方として、己が城を守て、賊徒等國中に蜂起せしを討ち平く、同き十五年、秀勝六十三歲にして卒す、嫡子伯耆守宣勝、初め太閤諱字賜て、秀信と名乘る、叙爵して主稅正に任ず、慶長五年の秋、父に隨て、國中の賊徒を平げ、父卒して家を繼き、五万石所領を分て、舍弟伊豆守善勝に與ふ、一万二千石〇父が本領六万石を、撿地し二千石を得たれは、かく分ちしなり、大坂の戰には、越後少將殿の、上總介殿の御事御手に屬す、寬永五年十月廿九日、四十七歲にて卒す、嫡子出雲守宣直、父に繼き、五万石舍弟等に所領を分つ、二男又十郞宣秋六千石、三男內記宣俊五千石四男左京宣知四千五百石、舍弟等に分つ所は、皆本領を撿地して、得たる所なりといふ寛文十二年、九月七日致仕し、延寶四年十一月卒す、其子信濃守宣廣、父が讓を受て、家を繼く、
伊豆守源善勝は、初の字は孫左衞門伯耆守秀勝が二男なり、慶長六年、生年十八歲、初て大御所に見參し、此年叙爵して、伊豆守に任す、同き十四年、將軍家上野國甘樂郡にして、所領賜ふ、二千石十五年に、父卒して、舍兄伯耆守宣勝、所領を分ち與ふ、善勝辭して受けず、宣勝終に將軍家に、此由を訴ふ、仰に依て、善勝己が所領に合せて是を領す、一万二千石を分たれ本領共に合て一万四千石を領す大坂前後の戰に、將軍家の先陣したり、其嫡子土佐守政勝、寬永十一年父が遺領を賜ひ、一万石○善勝卒せし年月日未た詳ならず、寬永十一年遺領を賜と云へば、此年卒せしか舍弟等に所領を分づ、二男權佐助勝三千石三男九十郞直勝千石政勝寬文十年正月廿八日、六十三歲にて卒す、其子伊豫守政胤繼く、其子帶刀某實は加藤內藏助明友が二男、養て子とす、