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家一覧 › 第十二下 › f183

古田

第十二下 · 段落 4 · 780526 56コマ Rから

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この家によく出る人物・地名

人物 11 10 8 8 4 3 3 3 2 2 2 2 1 1 1 1

地名 3 2 1 1 1 1 1 1 1 1

兵部少輔藤原重勝は一說に信勝吉左衞門尉某が嫡子なり、吉左衞門尉、羽柴殿の侍大將して播磨の國三木の城を攻て討死す、二人の男子あり嫡子は兵部少輔重勝、二男は大膳亮重治といふ、重勝伊勢の國松坂の城を領しけり、三万七千石〇天正十八年の後なるべし太閤薨し給ひて後、慶長五年の秋重勝、德川殿に隨て奧に向ふ、おのが城には家の子同助左衞門尉を留め置く、上方又軍起りて石田治部少輔三成、助左衞門尉が許に使立てゝ松坂の城を取らんとす、助左衞門尉これに隨はず、重勝程なく馳せ上り都合其勢千二百人おのが城に立籠り、軍兵少々引分て安濃津の城に差向け富田信濃守知高を援く、侍十八騎足輕百人を差向くといふ去程に鍋嶋信濃守勝茂一万餘騎を引具して松坂の城に押寄す、此城元より究竟の要害、容易く攻め落さるべうも見えず、又勝茂が父加賀守直茂が許より使來て、勝茂を堅く制しければ只遠攻にして日數を送る、關が原の味方敗ると聞えて、寄手終に引返しぬれば重勝遂に城を落されず、此年十一月德川殿、重勝が功を賞せられて所領の地加へ賜る、二万三千石加へられて六万石を領すといふ一說に五万四千石といふ同き十一年重勝四十七歲にして卒す、息男僅に三歲なりしかば、舍弟大膳亮重治一說に重勝に兄が所領賜て兵部少輔になさる、重治畏り承て、兄が孤子の候なる、彼が成人に及ばん頃かの父が官なれば、彼にこそ兵部少輔をば望ませ侍るべきにて候へと辭し申す、大御所聞召し、あつはれ今の世には類ひ少き人なれと感じ給ふ事大方ならず、大坂前後の戰に隨ひ首六十一切つて獻る、元和五年の秋石見の國濱田の城を賜て移る、五万四千石餘といふ明れば六年舍兄重勝が息男、やう〱成人に及びぬと申して、所領ゆづり兵部少輔を望み申し、おのれは常に關東に伺候す、
松倉豐後守これを見て、大膳亮年ころ身煩はしければ、家讓りて心靜かに世を過しなんと思ひしに、今又常に關東に伺候し夙夜の勞に怠らず、されば世を厭ひしにはあらざりけり、此時に至て重治が讓りの心いよ〱顯れて有難き人なりと云ひけり、世の人松倉が評をも感ぜしとなり、重治が卒せし年月いまだ知らず、
世に傳ふるは重恒天性我儘なる人にて、世に立交ることを嫌ひて、身の煩ひありと稱して年頃引籠りて、家子郞從等を見ることもなし、山田十右衞門成高といふ者、一人のみぞ常に側に候ひける、これは元石見の國の土民の子なりしを童なりし時、重恒其色にめでゝ寵愛し終に祿千石を與へて家の事を執り行ふにも彼をして舊き家の老などいふ者に我命を傳へさせてけり、さる程に重恒が籠り居りし後は、宗徒の家子郞從等も日々に此山田に逢うてこそ、主人の煩の樣をも問てけれ、或時山田が家に宗徒の者共を呼び集て、さても我が君年ころ御心濫りがはしく見えさせ給ひし程に、人々に深く隱しまゐらせて、只何となく御見參なき樣に計らひて候ひしが、けふは故殿より傳はらせ給ふ御寶物共、悉く取り出し給ひて某を召され、大きなる鐵鎚を以て皆打碎けと仰せらる、某も大に驚き色々に取止め申しければ、さらば今日はかくてもありなん、あすは必仰に從ふべしと仰ありて罷出てぬ、此定にては翌は必碎れんに、今は某一人が力にて止め參らせんこと叶ふべからず、年頃とかく包み侍れども、此事又大事に及ひ侍れば力なくかた〱に漏し侍りて、御意見の程を承るにて候ふは如何にと云ふ、宗徒の輩これを聞て大に驚き、さては年ころ違例し給ふと承りしは、よのつねの事にはあらざりけり、久しく見參に入らざりしを皆人怪み思ひしが、さてはおことが計ひにて我々にも深く包みし事こそ返す〱も神妙なれ、此上も尙我々心を一つにして、御家の絕え給はざらん樣をこそ謀るべけれ、且かの御寳物共と申すは、故大閣の賜りし物共多かりき、大御所を始め奉り當代にも御覽の物共少からず、然るを今忽に失せはてなんこと然るべからす、とにもかくにも、おことが計からひにこそあるべけれと云ふ、山田聞いて、されば彼御寶共は、さる故ありと承り傳へて侍れば、某も既に大事の事とは思ひなして侍りぬ、けふは止め參らせ候ひき、此後止め參らせんこと、某が力に及ぶべしとも覺えず、一つは年頃の御有樣をも見せ參らせんがため、一つは彼御寶物共の事をも諫め止め給はんがため、かた〱推參し給ひて某に力を合せ給ふべうもや候と云ふ、いかさまにも御有樣を見まゐらせたき事にこそあれ、おことが能く執し申さんには、我々いかにも推參せんこと、元より願ふ所なりと云ふ、さらば明日は必人々參らせ給へと約束して歸してけり、明る晨山田は重恒の前に參りて、君はいまだ知召されずや、此三年がほど籠り居させ給ふ事、かくては御家亡びんこと遠きにある可らず、詮ずる所君をば押込め參らせ、將軍家に申し乞て、御一族の中を擇ひて御世嗣にし參らせんと、宗徒の者共を始めて御家人等悉くに議定し、けふの晝は君を、とりこにし參らせんと仕り候は、如何にと申しければ、重恒大に驚き怒つて、さて汝は如何にや思ふと問ふ、山田承りて近く候ふ者共に仰て、家從の輩をだに誅せられんには、殘る所の御家人等は、いかで背き參らすべきと云ふ、重恒聞ていみじう謀つたる者かな、さらば汝よきに謀れとて、若侍共こゝかしこに立ち忍ばせ、宗徒の輩が參るを今や〱と待ち居たり、山田侍所に走り出で、おとな共に向て時既に至りぬ、はやとく參り給へと云捨て奧に入る、心得はべりぬといふ程こそあれ、家の子古田左京まづ座を立て參る、待ち設うけたる若侍共、仰なりといふ儘に、袈裟かけに切て斃しければ、何者なるぞ狼藉すなといふ所を、眞中に取込めて、おとなども二人までこそ切たりけれ、西林外記一人脇差を拔き合せ、二人切て捨て四人に手負せ、我身も數多疵かふむり、からうじて遁れ出づ、かくて重恒は家の老共が反逆の事ありて、三人を誅し訖んぬと披露す、西林外記もありし事共、一々に執政の人々に就て申す、幾程なくて重恒卒し子なけれは家絕えぬ、實は自害しぬるにや、山田が斯く計ひしは重恒が身死しなん後は、おのれ必殉死せんことを恐れて、いかにもして家亡びたらん後は、死せずともありなましと思ひしに依つてなりといふ事を或る雜記にしるし置きぬ、此事誠しからぬ事に覺ゆれども、既に世に傳ふる所なれば今爰にも註しおきぬ、