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竹中

第十二下 · 段落 7 · 780526 78コマ Rから

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地名 5 4 3 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

丹後守源重門は半兵衞尉重治が男也、重治が父遠江守某が時に至て、美濃國の守護齋藤山城守入道道三に隨て、不破郡岩手の城にあり、重治幼くして父に繼ぎ、菩提の城に在り、生年十九歲、主の右兵衞督龍興を恨むる事あつて己が主從僅に十六人、永祿七年三月十八日の夜、稻葉山の城を襲ひ取る、龍興辛き命のがれて落ち行く、織田殿この由聞き給ひ、其城參らせたらんには、美濃の國半を分ち賜はるべしと仰せ下さる、我が國の中にあらん城、他國の人に參らせて所領賜らん事、望む所にあらずとて參らせず、一歲を經て後に城をば龍興にぞ歸し與へける、
重治が稻葉山の城襲ひ取りし事、太閤記に精しく見えたり、去ながら彼國の侍黑田孫右衞門と云ひし者の我が師に語りしは、事のやう少しく變れり、重治童なる時には、年頃よりは愚かに見えたる人なりけり、元より龍興が被官たれば、質として舍弟久作を城中に置きけり、龍興も此人の愚かに見えしを侮て、常に無禮の事共多かりけり、十九歲の時城に登りて返りしに、龍興が侍共、主の常に侮るにならひて、櫓の上より重治に小便をしかけてけり、重治さらぬ躰にもてなし、押拭ひておのが城に歸り、舅の安藤伊賀守が許に行て、重治は屋形を恨み參らする事あつて、襲ひ參らせんと思ふなり、加勢給はるべしといふ、安藤もあはれ愚かなる人かな、我等が小勢を以て屋形を傾けんこと叶ふまじと思ひしかば、此事ゆめ〱然るべからずと敎訓して歸す、重治弟久作煩ふ事あり、傍に侍ひて醫療を加へよとて、侍六七人を城中に入れ置きぬ、其日暮方に長持に物の具入れて、雜人に舁かせ自ら侍十人ばかり召具して城に登る、是は舍弟が病訪ふ人々に、もてなさん料の酒飯やうの物にて候と云ひし程に、門每に咎むる者もなくて入れてけり、詰の城に入れすまして、物の具ひし〱と固めて切て入る、其夜の番の侍大將齋藤飛驒守をば、重治眞二つに斬つて伏す、かく小勢なるべしとは思ひもよらず、俄の事にはありけり、城中に在合ふ輩、周章ふためく所を十七人の者共、此處彼處に切て廻る程に、討たるゝもの少からず、龍興からき命を助りて落ち去りぬ、城中に早鐘鳴し出て以の外に騷動しける程に、安藤伊賀守さては彼男攻め入てけりと大に驚き、手勢引具し鞭鐙を合せて馳せ來るに、城をば既に重治が手に取てけり、其後安藤が計ひにて龍興重治中直りして城をば龍興に返し與へ、重治は近江の國に去てけりとぞ、
重治其後織田殿に從ふ、元龜三年織田淺井不快の事起て、木下藤吉郞秀吉を差向けらるゝに及んで、重治に寄騎の侍多く付けて秀吉に副へられたり、是より常に秀吉を助けて、謀を運らし戰を决す、初め豐臣太閤多くの武功を顯し、織田殿の御感に預り給ひしこと、偏に重治が助け參らせしに依てなり、天正七年の春秀吉を助けて播磨の國三木の城を攻む、心地例ならず醫療加へんとて都に上る、我が病いゆる事あり難しと聞て、さらば軍中にこそ死なめとて、播磨の國に馳せ下り、同六月平山の陣にして空しくなる、三十六歲とぞ聞えける、此人の事太閤記に其傳あり合せ見るべし古き人の申せしは、重治が勇謀武略、當時の人恐れ敬はずと云ふことなく、昔の楠、今の竹中と申せしなり、此人三木の陣に在りし日、書寫山にて僧の具買ひ求めて、高野山にのぼせ置き、城攻め落したらん後は、必世を遁れんと思ひしと見えきといふ、想ふに秀吉我が勢ひの起るに從ひ、我が才の重治に及ばぬ事を知り給ひ、彼を深く忌み思ひ給ひしに依て、かくは思ひ立ちしなるべし、古の陶朱子房が類ひにや、本朝にはかゝる類ひを見ず、志のならずして身早く死せしこと惜むべきなり、又幸なりとも云はまし、誠に尊ぶべき人なりけり、
丹後守重門童名は吉助、七歲にして父重治におくれ、秀吉天下の事を知召されて後十六歲にして從五位下丹後守になさる、菩提六千石を領せしといふ慶長五年の秋關が原の戰に、東國の味方して小西攝津守行長を生捕て參らす、重門が領せし濃州の地下人生捕て其領主なれば重門が許にゐて來りしとなり大坂の軍には、酒井雅樂頭忠世が手に属して戰ふ、重門年五十九歲、寛永八年九1日に卒す、重門後に豐後國府內の城を賜ひしにや
  1. — 底本のまま。「寛永八年九月」の「月」が脱落した底本誤植とみられる
世に傅ふる所は、元和九年越前の一伯殿、豐後の國へ流され給ひ、當國府內の城領せし竹中釆女正重次預り人となつて、五千石を加へ給ひぬ、竹中が領する所合て二萬石といふ、其頃は父の重門猶世にあり、重門に預け給ひしにあらずや、城主譜には伊豆守重利、府內の城を領して釆女正重次其跡を繼ぐ由をしるす寬永の日記にも釆女正重次は重利が子たるよし見ゆ、皆誤れるにや、重門が碑文を見るに、重門三男一女あり長子は左京亮重常、二男釆女正重次、三男伊豆守重利は早世すと云々、重利は釆女正重次が弟たり、兄が弟の家を繼くべき樣はあらじ、又丹後守重門が府內の城賜ひたらんには、長男左京亮重常こそ繼くべきに、次男采女正重次繼くべしとも思はれず、如何さま故あるべし、委しき事を知らねば、今疑ひをかきて、能く知れる人を待つものなり、
和泉國堺の浦よりして、長崎に移り住みし平野屋三郞右衞門といふ富有の商人あり、それが妾無双の美人なりと聞て、去年の春釆女正重義、使を立て是を乞ふ、かの商人深く惜みて其命に隨はぞ、さらば酒宴して遊ばん程これへ參らせよ、頓て送り返しぬべしと、重ねて云はせければ、力なく出で立たせて遣す五三日を歷れども返す事なし、彼女夜に紛れ垣を越て迯げ歸る、商人大に悅び、かくて此所にあらんには罪蒙る事もこそあれとて、取物も取りあへず、彼女を具して堺の方へ逃けてけり、重義怒て彼商人が兄二郞兵衞といひし者を、弟が身代りとして禁獄す、一族等歎き悲み急ぎ追手をかけて、彼女を奪ひ取り重義に參らせ、三郞右衞門をば追却せり、重義悅に堪へずして彼兄をば獄中より出す、三郞右衞門は、さしも身にかへて思ひし妾をば取られぬ、資財悉くに失ひて忽ち飢寒に堪へざれば、關東に參りて此由を訴へけり、重義色を好み人の妻や娘などを押取りしこと、いくらと云ふ數を知らず、又寶を貪り賄賂の多少に就きて訴の理非を斷つ、たとへば外國より來れる鮫魚皮あり、所の者共がかゝる上品の物は、遂に見しことも候はず、早く關東に參らせられん物なりと申す、重義聞て此魚皮關東に參らせたらんには、かゝる上品の者などか今までも來らざるべき、是は汝等が私の德付げんが爲、年頃は隱して公には參らせぬにこそあれと、御不審あらんに汝等は如何に申披くべきと云ふ、所の者共大に驚き、さらば如何にも御計ひにこそあるべけれと答ふ、其時重義吾いかにもして汝等が罪免れんやうを謀りなん、相構へて此事深く隱すべしと堅く誓はせ、おのが家にぞ納めける、是等の類ひ悉く顯れ、先づ重義を召戒められて、其家の財を籍沒せられしに、村正の刀多く出でけり、この村正が打ちし刀、故あつて當代には忌む事ありて廢りぬ、時移り世變りなんのちは、一定世の寶なるべき者なりとて、貯へ置きしとぞ聞えし、此由を聞召され其の用意の程を深く憎ませ給ひ、忽に誅戮せられしといふなり、誠なりしにや、