若狹守源正員は、參河國西鄕の住人、彈正左衞門尉正勝が曾孫なり、正勝代々西鄕の城に住し、永祿の頃、始て德川殿に屬し奉る、今川上總介氏眞、安からぬ事に思て、同五年九月十一日、軍勢を差向け、西鄕城を襲はしむ、正勝嫡子元正父子ちつとも騒かず、城戶押開き切て出て戰ふ、元正忽ち討れて、御方既に危く見えし所に、二男孫九郞清員、隣鄕に在て是を聞き、鞭鐙を合せて助來り、德川殿の御勢も馳加りし程に、正勝いよ〱力を得て、諸軍を下知し、戰て敵の多勢を打破る、是よりして後、數度の軍功を顯はし、終に二心を存せず、清員が男孫九郞家員、父祖に繼て、是も彈正左衞門と申ける、長篠の戰に、酒井左衞門尉等と鳶巢の要害を攻落し、天正六年より此かた、譜代の御家人等と輪番して、牧野の城を守り、武田既に亡ひし秋、甲斐國に向ひ玉ふ時、駿河國江尻の城に留て、北條が勢を防き、小田原の城攻られし時、先陣打て攻入、今年關東に移り玉ひし時、下總國生實の地を賜ひ、二千石慶長二年彈正左衞門家員四十二歲にして卒す、關が原の戰を記せる書に、家員德川殿の御馬の前に在て、諸軍の下知をすこれ權の武者奉行の如しと云云、家忠日記には、慶長二年に家員卒すと載せたり、家員が子孫九郞忠員は、關が原の戰ひありし明る年に、廿才にて卒すといふ、此人未だ年若し、武者奉行たらん事覺束なし、不審の事なり同六年五月廿五日、嫡子孫九郞忠員卒す、年廿歲とぞ聞えし、二男孫六郞正員、家を繼て後、若狹守に任す、去し慶長五年關が原の戰には、大御所に隨ひ奉り、近江國佐和山の城落て後、石川長門守康通內藤紀伊守信政と同く、行向ひて城を請取ける、是も不審なり、此時兄の忠員未だ世にあり但し陣代として向ひしにや、其後安房國にして所領を給ふ、幾程なくて卒したり、安房國里見亡ひし後なるべし、其年大坂の兵起りぬ、此時正員卒せしと見ゆ、安房に移りて、やがて卒せしにや、詳なる事を知らす、其子孫六郞延員、幼なくして家を繼く、万治三年十二月廿八日叙爵して、若狹守に任す、