山城守源定義は、故山城守定政が男、美濃國の源氏土岐左衞門尉光信が後胤なり、其家の系圖に、光信初て美濃國土岐郡に住せしより、子孫土岐とは名乘といふ、世に傳ふる所は、光信が孫美濃守光衡美濃源氏土岐の祖なりといふ、光信が五代の孫、伯耆守賴貞、建武の比、尊氏將軍に屬して、本領を安堵す、賴貞十一代の孫兵部大輔定明が時に至りて、當國の亂に所領を失ふ、或說に、定明美濃國の亂に戰死せしは、天文廿一年の事なりといふ、心得られず、織田信長、美濃國を併せられしは、天文十二年より1十三年に至る間の事なりといふなり、さらば、定明の戰死の事、廿一年には有べからず、若し本領を失ひしのち、他國に在て合戰せし事、天文廿一年にある歟、未だ詳かならずといふ、山城守定政は、定明が男にて、美濃國多藝郡に生れ童名は愛菊丸といふ、生年二歲にして父におくれ、母方の舅三河國額田郡の住人菅沼常陸介が許に、ひとゝなりて、十四歲の時、德川殿に召れて、菅沼藤藏とは申けり、初め土岐と名のらざるは、養父の氏を稱し、又は明智が親戚たる事を憚りしか故なりといふ、十七歲にして軍始して、一生の高名數を知らず三方が原の戰に、味方散〱になつて、御馬に從ひ參らせし人多からず、定政三宅彌次兵衛、正次二騎、御側をちつとも離れず、敵近付きまゐらすれば、定政返し合せて戰ふ事、度々に及ひ、終に敵の多勢に割て入り、一騎を切て、其首取て馳せ來る、
- 天文十二年より — 지면 그대로. 織田信長의 美濃 병합은 통설 永禄10年(1567)