藩翰譜원문 데이터베이스

가문 목록 › 第四下 › f044

土岐

第四下 · 단락 3 · 780521 57코마 L부터

인물지명관직가문날짜색인 목록
이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 20 4 4 3 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 3 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

山城守源定義は、故山城守定政が男、美濃國の源氏土岐左衞門尉光信が後胤なり、其家の系圖に、光信初て美濃國土岐郡に住せしより、子孫土岐とは名乘といふ、世に傳ふる所は、光信が孫美濃守光衡美濃源氏土岐の祖なりといふ、光信が五代の孫、伯耆守賴貞、建武の比、尊氏將軍に屬して、本領を安堵す、賴貞十一代の孫兵部大輔定明が時に至りて、當國の亂に所領を失ふ、或說に、定明美濃國の亂に戰死せしは、天文廿一年の事なりといふ、心得られず、織田信長、美濃國を併せられしは、天文十二年より1十三年に至る間の事なりといふなり、さらば、定明の戰死の事、廿一年には有べからず、若し本領を失ひしのち、他國に在て合戰せし事、天文廿一年にある歟、未だ詳かならずといふ、山城守定政は、定明が男にて、美濃國多藝郡に生れ童名は愛菊丸といふ、生年二歲にして父におくれ、母方の舅三河國額田郡の住人菅沼常陸介が許に、ひとゝなりて、十四歲の時、德川殿に召れて、菅沼藤藏とは申けり、初め土岐と名のらざるは、養父の氏を稱し、又は明智が親戚たる事を憚りしか故なりといふ、十七歲にして軍始して、一生の高名數を知らず三方が原の戰に、味方散〱になつて、御馬に從ひ參らせし人多からず、定政三宅彌次兵衛、正次二騎、御側をちつとも離れず、敵近付きまゐらすれば、定政返し合せて戰ふ事、度々に及ひ、終に敵の多勢に割て入り、一騎を切て、其首取て馳せ來る、
  1. — 지면 그대로. 織田信長의 美濃 병합은 통설 永禄10年(1567)
此時傍輩のもの、馬に離れしが、定政が馬の後に乘らんとせしを許さず、今日若し我を助け乘せざらんには、わぬしの日比の高名、空かるべしと、曰はれて、定政馬の頭を、敵の方に引むけて、いざわれ乘れとて、馬の後に乘せて馳歸る、是れ又定政が高名なりしといふ、
持舟の戰に定政が親しかりし、水野彥九郞敵二騎と戰て打れぬ定政是を見て、馬を馳て敵二騎を切て落し、其首切て、水野が首をば取り返しつ甲斐國にして北條と戰ひ玉ひし時、定政、鳥居彥右衞門元忠と同じく、小山の要害を守て、左衞門大夫氏勝が多勢を打破る、北畠殿を助け玉ひ、尾張の小牧に御陣をなされし時、定政敵の廻文持ちし者共三人を生捕て參らせしに、其謀あらはれき、かくて長湫に御馬を向られし日、或人止め參らせて、今日の御合戰然るべからずと申、定政御前に候らひしが、けふ御合戰あらずして、いづれの日をか待つべきと申て、從者一人めし具して、御先を懸く池田が勢の進むを見て、主從二人鎗取て敵を待つ、眞先に進む敵三騎まで突落し、從者にまた一騎を突かせ、首四つを切る、殘る郞從馳せ來り、續く敵と散〱に戰ふ程に、御勢も又寄合て、終に、池田は破れてけり、戰既に終りし後、御陣を小幡にすゑられて、敵の樣を見せらる、御使馳せ歸て敵既に寄來りぬと申す、重て又定政を召されて、敵の樣を見せらる、定政一騎敵陣に馳入り、縱さま橫さま馬を馳せ思ふさまに、見おほふせて馳歸り、敵皆冑を脫きて晩食し候ひぬ、いかで唯今寄來るべき、一定暮なば寄せ來る事候べし、急き御陣を小牧に移さるべしと申す、或人また爰にて待て戰ん事然るべしと申す、德川殿定政が申す所其謂れありと仰せられ、頓て御陣を移されたり、案の如く秀吉の大勢寄來り、既に御陣を移されしと聞て、手を空しくして引返す、定政が此度の功少からずとて、寄騎の侍三十騎を屬られ、其後小田原の御陣の時、また定政が手に穴山衆をぞ屬られける、關東に移らせ玉ひしかば、下總國關宿の城を守らせられ、相馬郡にして所領の地を給ふ、一万石文祿年中、叙爵し、本姓に改て、土岐山城守と申、慶長二年四十七歲にて卒す、其子山城守定義父に繼く、將軍家に仕て、慶長十七年四月大番頭となり、元和三年攝津國高槻の城を給ひ、二万石、按するに城主譜に、此時新に城を修し玉ひしといふ云云また按するに定義元の儘にて、大番頭のうちに卒せしと見ゆ、同き五年に卒す、嫡子山城守賴行いまだ幼なかりしに依て、下總國相馬の郡に移され、成人の後、叙爵し、寛永五年出羽國上山の城を賜ふ、二万五千石延寶六年八月十六日、致仕入道して宗是と號す、嫡子左京亮賴長早世し、二男伊豫守賴隆を世嗣とせり、賴隆初め二男なれば、別に將軍家に召仕はれ、寛文十三年四月九日、御扈從組番頭なつて1、延寶六年六月に至り、其後父の讓りを受く、
  1. — 지면 그대로. 「番頭となつて」에서 「と」가 빠진 저본 오식으로 보임