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高木

第四下 · 단락 1 · 780521 59코마 R부터

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인물 17 9 7 6 3 3 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 3 3 3 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

主水正源正次、先祖は遠く多田新發意滿仲の後、高木判官代信光に出づ、其後或は尾張の國に在り、或は三河國にあり、中頃の先祖足利殿に從ひ、尊氏將軍の時といふ都に入て戰功を顯しげれば1、勳賞として、末行の御太刀を給ひ、我家の珍として、永く嫡流の子孫に傳へけり、高木の總領彌二郞某といひしもの、三河國碧海郡竹村に住す、慶長の初めに死して世嗣絕ぬれば、系圖も紛失すといふ、正次が父主水清秀、初名は善二郞三河國碧海郡牧內の住人六郞左衞門尉宣光が子、水野殿の家に仕へ、下野守信元尾張國智多郡小川に在り、清秀生年十六歲にして、三河國苅屋の戰に、高名を極め、織田備後守信秀に隨ひ、小豆坂の合戰に、今川の兵と組て、馬上より落ち重りて、首を取る、信元頻りに召されければ、再ひ小川の城に歸る、其後石が瀨の合戰の時、一日の內七箇度まで先を懸け、其後又石が瀨の戰に、石川伯耆守數正と槍を合す、是等の高名數ふるに暇あらず、三河國一向專修の門徒、德川殿に叛き參らせしに、信元加勢して、戰ひ玉ひし時、清秀德川殿に見參す永祿七年、清秀先祖の名田三河國大岡の地に在りと聞えて、德川殿より安堵の御判をなし下さる、姉川の合戰の時、信元に隨て、高名し、天正二年の秋、織田殿伊勢國長島を攻られしに、嫡子善二郞光秀と同く高名し、其後又濱地藏の戰に、味方打負て、小川苅屋の勢も又破れんとす、清秀進んて先を懸く、織田殿遙かに御覧じて、爰に御方の先を懸るは清秀なり、者共つゞけと下知し玉へば、御方續きて馳向ふ、清秀眞先に進む、敵と戰つて、首をとる、長篠の合戰に、高名して、疵を蒙り、天正四年の秋、大坂の門徒、河內國十七箇所に楯籠る、信長是を攻め玉ふに、此程は信元討れ玉ひ、小川苅屋の勢は、佐久間右衛門尉信盛が手に屬す、秀吉いまだ木下藤吉と申せし時、負け軍せられしに、佐久間は清秀が謀に隨て、其敵を打破る、信貴の城を攻られしに、高名し荒木の城を攻られしに、舍弟甚太郞清方二男內膳一吉と先懸す其後また信元の舍弟和泉守殿の手にぞ屬したる、天正十年の冬、德川殿、甲斐の新府に御陣をめされ、清秀、主に隨てかしこに在り、此時は和泉守殿の代なり高木九助を御使として、清秀を召さる、清秀召に隨て御陣に參り、頓て御家人に召し加らる、千石を賜ふ小牧の御陣に、軍奉行の事を務む、長湫の戰に、清秀物見を承て馳歸り、德川殿の御陣を進めしかば、上方の軍悉く破れ奔る、小田原を攻られしには、武者奉行を給り、今年關東に移らせ給て相摸國鰭名2の地を給ひ、九千石三男正次、又所領を給ふ、千石、正次此時は善二郞と申す、其後清秀年老いて、致仕し、おのが領に引籠りける、德川殿御鷹野のついで、みづから彼家に至らせ給ひ、物たまふこと、度々に及ぶ、文祿の初め、朝鮮の事起り、明れは二年三月の頃は、德川殿にも彼國に渡らせ給ふべし抔と聞えしかば、清秀肥前の御陣に參り向ふ、德川殿悅せ給ふ事斜ならず、太閤また此由を聞給ひ、德川殿の御陣に成らせ給ひし時、清秀並に戶田三郞右衞門尉忠次を、御前に召して、二人が年比の高名を感じ仰せらる、慶長五年奧の上杉追討の時、清秀小山の御陣に參り、また宇都宮の御陣に參り、御供の事を望み申す、年いたく老たれば、許し給はずして返へされたり、年八十五歲にして、慶長十五年七月十三日に終りぬ、正次初め父に隨て、御家人になされ、長湫の戰に、よき敵と戰ひ、首取て獻り、關東に移り玉ひし時、別に所領の地を給ひ、千石其後父が家を讓られ、五千石慶長五年三成が亂に、海道の御供して馳せ登り、遊軍の衆なり同七年下總國にて所領加られ、二千石同十年四月廿六日叙爵し、家忠日記追加には、十四年十月六日の事とす、不審、十一年八月十一日大番の頭となる、家忠日記追加に出つ、諸役人系圖には十二年の事とす大坂の兵、初め起りし時は關東の留守を承り、再ひ兵起しには將軍家に從ひ、手の人々引具して、敵の多勢を打破り元和三年所領の地加給ひ、千石同き九年大坂の城番を承り、河內の國丹南の地を給ふ、都合一万石かしこを守る事凡八年、寛永七年十一月晦日卒す六十八歲、其子主水正正成、關が原の戰の時、山道の御供して、今年所領の地を給ひ、千石大坂の戰に、將軍家に隨て、高名を顯はし、其賞として上總國にして地を加賜ふ、千石寬永三年十月三日叙爵し、肥前守に成る、父卒て家を繼き、主水正になる、同八年小田原の城を守る、御城代といひしなり九年十一月御書院の番頭となり、十一年正月十一日大番の頭に移る、十二年四月二日卒す、四十九歲主水正正弘繼く、正弘慶安四年八月大番頭となり、明曆四年六月十三日卒四十六歲、其子主水正正盛寛文四年三月七日大番の頭と成り、同十年二月十日三十六歲にして卒す、其子肥前守正長繼く、
  1. — 지면 그대로. 「顯しければ」의 탁점 오식 가능성
  2. — 지면 그대로. 天正18年 高木清秀가 받은 곳은 통설 相模国 海老名