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山口

第六 · 단락 7 · 780522 61코마 R부터

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인물 40 9 8 6 6 5 5 4 4 4 4 4 4 3 3 3 3 3 3 3 3 2 2 2

지명 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

修理亮多々良重政は、先祖遠く異國より出づ、百濟國王東明八代の孫王餘璋、第三の王子淋聖、唐兵の亂を避けて、本朝推古天皇十九年に當て、周防國佐波郡鞠生の、浦、多々良の濱に來り止る、淋聖王子卒して周防國吉敷郡御堀の庄に葬る、今の南明山乘福寺の地是なりと王子七代の後長門守正恒が時、新編纂圖に出づ、然るに家の系圖には正恒を以て王子にかけて、其事を注せず、不審の事なり、朝廷始て彼が先祖來り留れる地の名に依て、多々良朝臣の姓を給ひ、自ら大内と名のる按するに新撰姓氏錄に多々良公は御間名の國の王爾利久牟王より出づ欽明天皇の御世に投化して金の多々利金の乎居を獻る天王ほめ玉ひ多々良を給ふと云ふ家の傳ふる所に異なるに似たり正恒十七代の後胤、左京大夫義弘、周防國山口に住し、長門石見豐前の國を打從へ、明德の亂に足利殿に參り、戰功を顯しければ、勳賞として和泉紀伊等の國を賜ふ、六箇國の守護として、天下双ひなき大名なり、義弘が世嗣左京大夫盛見、義弘か弟盛見が男二人、兄は修理大夫持世、弟は周防權介持盛、持世嫡子なれば家を繼き、四代の孫從三位兵部卿義隆の時、家人陶尾張守晴賢が爲に亡されて、大内の嫡流絕えてけり、初め周防權介持盛、兄持世卒し、其子贈三位敎弘幼なかりし時、これに代りて國を治ること凡三年、持盛が孫孫太郞任世、初め法師となつて、尾張國愛智郡星崎の庄に來り住む、其後男に成り還て、二人の男子をまうく、嫡子修理亮盛幸、累代の先祖住せし地の名に依つて、始て山口とこそ名乘けれ、盛幸が孫平兵衞尉盛政、これ則ち修理亮重政が父なり、盛政また半左衞門尉と云初め織田殿に仕へて、柴田修理亮勝家が手に屬せらる、柴田滅びて後、我妻の弟北畠殿の家老岡田長門守が許に來つて、星崎の城に在り、斯て岡田、秀吉に心を通じ叛き參らする由聞えしかば、天正十二年三月三日1、信雄卿の爲に誅せらる、長門守が舍弟伊勢守此時は勝五郞星崎の城に立籠る、盛政終に城を去て、北畠殿の御方に參る、太閤記幷家忠日記等合せ按へし、盛政が嫡男修理亮重政初めは長二郞と申て、是も織田殿に仕へ、佐久間信盛が手に屬す、信盛罪かうむつて、高野の奧に籠りしに、彼が手の兵二万餘騎、おのがさま〱なり行きしに、重政一人、信盛が先途を見んずるとて、同じく高野に趣く、扨も岡田既に誅せられぬと聞て、秀吉大に怒り軍勢を催し、伊勢國に發向す、佐久間駿河守正勝、北畠の御方して、長二郞重政等を宗徒の侍大將とし、都合其勢五千餘、同き三月九日嶺の古城に要害を搆へ、龜山の城を攻んとす、同十日秀吉の軍勢、嶺の城に押寄す、正勝重政、打て出づ、味方さん〱に打なされ、討るゝもの三百餘人、正勝既に自害せんとす、重政大に諫めて城中に引返す、敵つゞいて攻來る、佐久間山口また城中より切て出づ、德川殿の御勢、うしろ卷すと聞えしかば、寄手は城を攻めもせず、日既に暮に及ひければ、討殘されたる軍兵を引具して、正勝重政、一方を打破て、長嶋の城に返りけり、正勝又尾州蟹江の城に移り、重政、大野の城に籠る、かゝる所に、正勝北畠殿の仰によつて、便宜の地擇みて要害かまへんとて、前田與十郞を留て、城を出づ、前田忽に心變し、瀧川左近將監一益九鬼右馬允嘉隆と謀を合て、山口が許に使者を立て我等が父子、佐久間殿を恨み參らする故あつて、羽柴殿の御方に參り候ひぬ、こゝに重政の母上、此城に留め置かれしに依つて、今既に御方の手にわたりぬ、重政もし母上の恩を顧りみ、家門の榮を謀つて、御方に參り給はんには、母上の御命、事ゆゑなからんは、いふに及ばず抽賞定て少かるべからずと云はせければ、重政是を聞て、佐久間殿に二心を存せざるが故に、母を納て質としき、今若し母を助けんとて、うしろめたき事あらんには、日頃の本意、是れ空し、助けんこと義に違ひたるに似たり、されば古人の申せしにも、忠孝二つながら全き事を得難しとこそ侍れ、重政既に人に仕ふる身となれり、母を救ふ事及ぶべからず、詮ずる處、たとへ不孝の子となりぬとも、不忠の人に組みせんこと叶ふべからずと返答す、瀧川九鬼これを聞て、につくい物のいひやうかな、いで〱その儀ならんには、山口めが城攻め破つて捨ばやとて、大野の城に押寄す、重政勢こそなかりけれ、所々の御方に急を告け知らせ、來る敵を待居たり、九鬼が兵船數十艘、まづ大野の川に押登る、重政急て松炬いくらも拵へ置き、手に手にこれに火をつけて、敵の舟を見おろして、投込み〱する程に、兵船二艘もえ出づる、打ふし川風烈しくて、黑煙うづまき、炎忽ち船共に吹つくれば、敵は船ども乘捨て、陸にあがつて迯散るを、城中より切て出づ、井伊兵部直政を先として、北畠の軍勢も、鞭鐙を合せ援ひ來れば寄手こらへず引かへす、德川殿、本多平八郞に仰せて、重政を召され、此とき御陣は戸田にあり、重政むかし信盛に屬て、志を改めず、今また逆徒等に組せざりし事、感じ給ふ事斜ならず、御馬をぞ賜つたる、此後世かはり、事變して、重政德川殿に仕へ奉る、慶長六年叙爵して、但馬守に任し、後には修理亮常陸國牛久の地たまひ、一万石又大番の頭となつて、御奏者の事をかぬ、同き十四年伏見の城を守て、憲法をみたさざりしかば、十六年十二月十五日、その賞を行はる、五千石加へ玉ふ、十八年正月八日、忽に罪かうむる事あつて、所領盡く收公せらる、武藏國入間郡に蟄居す、一說本多美濃守忠政に預けられしと云、不審、
  1. — 지면 그대로. 織田信雄이 岡田重孝 등 세 가로를 주살한 날은 통설 天正12.3.6(1584)
創業記を見るに、初め大久保相摸守忠隣我が妻の姪石川長門守康通が娘を養て子とす、今年但馬守重政が嫡男伊豆守重信に嫁す、長門守康通が息男、其行正しからざる依て、日頃兩御所の御氣色よろしからず、然るに今但馬守彼の石川が息男の姉を以て、我子にめあはせし事、上を蔑ろにしたる所なりとて、御旨に逆ふと云云、大久保が傳と合せ見るべし、世に傳ふる諸說を信ずるにたらず、同き十五日、重政一封の書を獻て、罪なき由を申披きしかど、御免されなかりしかば、武藏國入間郡に蟄居せり、明れば十九年の冬、大坂の軍起る、重政重信父子郎等少々召具して、海道を馳上り、箱根の關にて留められ、引歸してまた、山道にさしかゝる、程なく御和睦の事成て、今年も既に暮れぬ、明る元和元年の夏、軍再ひ起りしに、父子此度は、さまをかへ、山道より忍び上り、井伊掃部頭直孝が手に屬て、河内路より向ふ、五月六日の戰に、若江伊豆守重信、眞先に進み、馬武者五騎切て落し、六騎にあたる敵と引くみ、さし違へて死したりけり、
或說に、此夜重政、直孝が陣に行きむかふ有合ふ人々、重信が事を弔ふ、重政されば愚息が討死仕りし事、彼が年比の本意遂に達し訖んぬ、なげきの中の悅なり、さりながら御勘氣の中に死せし事、死しての恨もさこそ深くやはべらめと淚と共に答へしを、聞く人みな鎧の袖をぬらしけり、こゝに直孝は、とむらひをは、述べずして、盛りなる子を先立て、つれなく殘りし老の身は、なにを賴みに生きけんと、さし顯はしては云はねども、言葉のすゑにぞ聞えたる、重政大に怒つて、既にさし違へんとしたりしを、人々中に立ち塞かり、さま〱に中直りさせぬ、今日若江の戰に直孝が麾の揮りやうあしとて、重政がをしへしを耻ち怒りて、直孝かくは云ひしなり、二人是より、不快にして、重信がうち死せしありさま、直孝かくとも申さねば、執し申す人さらになし、重政なけきの中に憤りて、空しく月日を送り、死してのち二人の男召し出さるといふなり、又一說に、重政も手負て疵をうれへ、程なく死す、また一說下にみゆ、
重政年比本多美濃守忠政に親し、天壽院殿は忠政の男中務大輔忠利1に添はせ玉ひしかば、重政父子の事よく知召され、折にふれて御歎き有しかば、重政後に召返され、本領を下され、若年寄の職に至りぬと、諸說まち〱なり、いづれか誠なるにや、但し若年寄たりしといふ事は不審なり、そも〱當家に此職置れし事は、大猷院殿の御時寛永十二年十月廿九日、土井遠江守、酒井備後守を此職になされしより始れり台德院殿の御時までは、御近習出頭人衆といふばかり有しなり、又諸役人帳を考ふるに、御近習出頭衆の内にも、山口が事は見えず、又重政が卒せし年月、いつともいまだ知らず、
  1. — 지면 그대로. 天壽院(千姫)이 재가한 本多忠政의 아들은 忠刻(中務大輔)이라 「忠利」는 忠刻의 오기로 보임
寛永五年重政が三男長二郞弘隆、四男半左衞門重經に父が所領の地分ち賜ひ、兄に一万石弟に五千石同しき九年十二月廿三日兄弘隆但馬守、同廿九日弟重經備前守に任す、或說に此後松平伊豆守信綱は、井伊と山口兄弟が中直りさせんとす、兄弘隆は父にて候者が死しても恨みもや殘るべき、此事ゆめ〱叶ふべからずといふ、弟重經は、信綱のたまふ所なり、かつ直孝は當時の重臣にておはせばとて、中なほりす、