가문 목록 › 第六 › f071
北條
이 가문에 자주 나오는 인물·지명
인물 北条氏規 16北条氏政 16豊臣秀吉 15北条氏直 15北条早雲 10徳川家康 9伊勢貞藤 4北条氏綱 4北条高時 3横井掃部介 3織田信雄 3北条氏康 2伊勢貞親 2足利義視 2今川義忠 2伊勢貞宗 2徳川家臣小笠原丹波守 2北条氏房 2北条氏盛 2北条氏信 2北条氏利 2北条氏宗 2北条行長 1伊勢貞国 1
지명 伊豆韮山城 5伊豆国 4相模国 4相模小田原城 4東海道 3伊勢国 2駿河国 2駿河興国寺城 2北陸道 2上方 2備中国 1尾張国 1畿内 1山陰道 1山陽道 1南海道 1西海道 1越後国 1京都 1東山道 1関東 1武蔵国 1紀伊国高野山 1紀伊国天野 1
北條家の系圖に記す所各異あり、一に曰く長氏入道早雲は相摸守平高時に四代北條新三郞行長が子なり、母は伊勢備中守貞國が女、當時足利殿の御代なれば北條を名のる事を憚り母方に因て初め伊勢新九郞と名のれり、伊豆相摸を領して本姓に還り北條と名のる長氏永正十六年八月十五日に卒すと云々、一に曰く長氏は高時より三代の後、時盛が子、應永廿七年に生れ元龜三年に卒すと云々二說共に其家の傳ふる所なり不審、小田原記を案ずるに伊勢伊勢守貞親が弟備中守貞藤、應仁の亂を避けて伊勢の國に下る、程なく今出川殿も、北畠の國司を御賴あつて、かしこに御下向あり貞藤が息男新九郞長氏、備中國より伊勢に來りて、今出川殿に見參す、今川上總介義忠は、姉聟なれば、ゆかりに付て駿河國に下り、義忠の子氏親が時、當國高國寺の城を賜て領す、長氏が母は、尾張國の住人横井掃部介が娘なり、橫井もと北條高時が後なり、かの一族伊豆國に住せるあり、男子なけば長氏を聟にして其家を讓る長享二年十月、長氏高國寺より韮山の城に移り、嫡男氏綱を生む、又養父北條が孫女を、氏綱にあいせて、北條新九郞と名のらせ、我身入道して早雲庵と號すと云々又伊勢の系圖を見るに伊勢守貞親三人の男あり、嫡子伊勢守貞宗、これ金仙寺殿の事なり、二男新九郞貞藤、初め貞辰といふ、相州の北條氏養て子とす、これより北條と名のれり、三男は兵庫頭貞職としるせり新編纂圖と違あるに似たれども其家の系圖疑ふべからず小田原記の記す所も、伊勢の系圖に異なれども大畧は違はざるに似たり、
祖父氏綱父氏康兄氏政に至て、領する所の地八箇國、武威東海に奮ふ事凡百餘年、豐臣の關白、天下の事しろしめすに及ひて畿内の地は云ふに及ばず、山陰山陽南海西海悉くに靡き從ひ、北陸道も越後より西は皆從ふ、東海道に取つても、既に德川殿と親うなり玉へば、駿河國より西は、無爲に屬す、北條いまだ從はねば、相摸國より東の國々は命も行はれず、此時氏政は國をば子息相摸守氏直に讓り、自らは截流齋と號し、政務の事に預らず、此氏直と申は、德川殿の聟君にてましませば、關白もさすが速に違犯の罪にも處し難く、大方は事の躰に依つて、追討の事あるべきなど聞えければ、德川殿よきに計らせ玉ふに因て、關白の心とけ玉ひ、天正十六年五月、北條の使者、初て都に上る、この美濃守氏規をさゝれたり、德川殿よりも榊原康政つけて參らせらる、やがて氏政上洛あるべきよしを宣ひながら、其事なく年月を經て、事の違亂、出來ぬれば、關白大に怒り給ひ、同き十八年の春、天下の軍勢を催促し、東海東山北隆1より打て下らせ玉ふ程に、氏政父子一族郞從を分つて、多くの城々にこめらる、美濃守氏規、伊豆國韮山の城にぞ籠つたる、諸所の城々悉く攻落され、今は小田原の城のみ殘りしかど、氏規が籠つたる韮山は、終におとされず、此所の寄手、上方の大名七人に、北畠内府の軍勢を合て五万餘人、以の外に攻あぐんて、たゝ遠攻にする事、五箇月にぞ及びける、關白の仰を承り、德川殿の御家人小笠原丹波守、御使として此城に行むかひ、御方の人々の軍するやうを見す、小笠原上方の人々の、いひがひなく城を守り居たるを怒つて、手勢引具し、人まぜもせず攻め戰ひ、續く御方なければ、父子終に討死す、かくては此城いつ落つべしとも見えず、德川殿、氏規が許に御使を給ひ、抑關八州の城々悉くに落されぬ、然るに韮山の城のみ落されず、氏規の名譽、誠に双ひなしといつべし、爰に太田十郞氏房、氏政の子氏直の弟羽柴下總守勝雄と相議して、東西の和睦、事ならんとす、按するに、關白浮田秀家して計られし事なりたとへ氏規、其城一つを守て討死を決せらるとも、小田原の城降らん上は、其詮なきに似たり、早く其城を去て、小田原の城に入り、氏政父子、事ゆゑなからん謀を廻さるべしと仰せ下さる、又氏政父子書を賜て其城早く寄手の爲に、開渡すべきよしを下知せらる、氏規此上はとて、城をば德川殿の御家人內藤三左衞門信成に渡し、德川殿の御陣に參り、東西和睦の事を議す、殿下氏規が申旨に任せられ、伊豆相摸武藏三箇國を氏政父子にまゐらせ、殘る所の國々うけ取て、東西の人質、取替し、頓て御開陣あるべしと仰らる、氏規大に悅ひ、關白の御敎書をこひ受て、七月六日、卯の一點に澁取口より、小田原の城に入る、城中には、また太田十郞氏房が申旨に就きて、氏政父子の中に違亂の事、出來て、氏直父の命に從はず、降を乞て、同七月六日の卯の一點に城を出て、北畠殿の陣に參る、かゝりしかば氏規が謀も空しく成て、氏直は死を宥られ、氏政同舍弟陸奧守氏輝をば誅せらるべきに定りて、同き十日、關白の御使、氏政の許に向て、自害の事を勸む、氏規、力およばず、氏政の介錯して、返へす刀にて、おのれも自害せんとする所を、警固の者、刀を奪ひ取りしかば、死する事を得ず、關白殿も氏規、去々年使として、上洛せしより、見玉ひし者にて、今度韮山の城をも、固く守り、東西和睦の事をも謀り、氏政と死を共にせんとせし志の程を感じ玉ひ、色々仰せ下さるゝ旨あつて、同十二日、氏直の供して、高野山に登る、同じ冬の頃氏直天野といふ所に下り玉ひ、明年の春、關白殿より大坂に召され、北畠內府の住れし舘に請じ入れ、御對面の儀あり、やがて國をもたふべかりしに、文祿元年十一月四日2痘瘡を患へ、三十歲にて死し玉ひぬ、
- 北隆 — 지면 그대로. 「北陸」의 저본 오식으로 보임
- 文祿元年十一月四日 — 지면 그대로. 北条氏直의 몰년은 통설 天正19.11.4(1591)로, 文祿 개원(天正20.12) 이전