但馬守藤原泰朝は、越中守長朝が子なり、長朝が父茂兵衛尉といふ、天正五年十一月十二日卒す又長朝を一說に景朝といふ、其祖上總國周准郡秋元の庄を領せしより秋元と名のるなり、今も秋元の庄小絲といふ所にある天南寺には、世々の牌位あり、寺にては源氏なりと申、其系圖を見ねば、其祖出し所群が累代の先祖關東の管領上杉の家人井草秋元園庭とて、武藏國の深谷三人の宿老なり、相摸の北條、威を關東に奮ひしよりこのかた、主なりける上杉も、北條に屬ひぬ、天正十八年の春、關白殿北條を伐ち玉ひし時、泰朝が父越中守長朝、主に從て、小田原の城に籠る、北條滅ひし後、彼の領せし國々皆德川殿領し玉ひ、武藏國を御座所と定らる、當國に名ある者なれば、井伊兵部少輔直政勸めにて、越中守長朝を召出され、御家人となさる、慶長五年の秋、奧の上杉中納言景勝、御退治の爲、御下向ありしに、上方また一時に軍起る、德川殿まづ引返し、上方に向ひ給はんには、上杉御後に打てのぼるべし、此儘景勝を退治あらんには、上方の軍勢攻下りなん、此事如何あるべきとありしに、本多佐渡守正信、謀て、上杉が家老直江山城守が許に、越中守長朝を使として、云ひ送る旨ありしかば、奧方の軍兵、白河の關よりこなたに打出る事なく、德川殿御心のまゝに、上方の敵を滅し玉ひ、其後長朝御使として、景勝が許に行向ふ、此度は深谷の士大沼越後副使となされ、豐光寺等と共に下向し、仰の旨を傳ふ景勝やがて領する所の國を獻て、德川殿に見參し、天下忽に事なく治りぬ、これは秋元が先祖上杉の被管にして、しかも長朝、智謀ゆゝしき者なれば、かゝる大事の御使を再ひまで承りしこと、身の譽とぞ聞えける、其子但馬守泰朝、大御所に昵近し、松平右衞門大夫正綱と一双の親臣にて、時に御近習出頭人衆といふ、大猷院殿の御時、日光山神宮造られしに、右衞門大夫正綱と、但馬守泰朝とを奉行たらしめ玉ひしもこの故なりと申傳へけり、其後寛永十八年二月三日1甲斐國谷村の城を賜ひ、一万八千石三代の君に仕へ奉り同き十九年十月廿三日、年六十三歲にて卒す、嫡子越中守富朝繼く、明曆三年六月十七日、四十八歲にて卒す、子なければ外孫を以て嗣とす、攝津守喬知實は戶田越前守忠昌が男、年九才にして外祖の世嗣となり、万治三年十二月、但馬守になり、寛文五年十二月攝津守になる、延寳五年七月三日御奏者の事を承る、
- 寛永十八年二月三日 — 지면 그대로. 秋元泰朝의 甲斐 谷村 입봉은 통설 寛永10.2.3(1633)