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가문 목록 › 第七上 › f088

堀

第七上 · 단락 11 · 780523 29코마 L부터

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이 가문에 자주 나오는 인물·지명

인물 24 11 7 7 6 6 6 6 4 4 3 3 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1

지명 4 4 3 3 3 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1

或說に、直政は斯波民部少輔滿種の後、尾州奧田といふ所を領せしより、奧田とは名のりたり、其後美濃の國に移て、茜部に住す、直政が祖奥田三右衞門某、父同七郞五郞某、當國鷺山の合戰に、無双の大力道家孫次郞を討て、世には惡七郞五郞と名つく、直政伊賀國龜田の城に先駈し、勢州峯の城にして、山岡道阿彌と槍を合す、其餘長篠山崎志津岳等所々の高名、擧けて數ふるに暇あらずといふ、秀吉關白の時に至て、越前の國を以て秀政に賜ひ、直政して堀と名のらす、此時源氏を改めて、藤氏と稱すといふ、秀政の子秀治、越後に移りし時、三條の城を守る、五百石を領せしといふ、慶長五年の亂に直政柏崎に陳して、當國の凶徒を討ち平けぬ初め直政秀政が女に添ひて、雅樂助直清を設く、主の外孫なりければ世嗣とす、三十郞直寄は、母賤しければ、年長じぬれど世嗣とはせず、直寄童より太閣の御所に召仕はる、朝鮮の事起りし後、直寄十六歲の時、小山に至て、毛利右馬頭輝元に就きて、望み申せしは、抑も仰せ蒙りて朝鮮に行き通ふ輩、常にたらず、あはれ直寄も一度御使を承らばやと申しければ、太閣幼き身にて望み申す所神妙なりとぞ仰られける、慶長三年、秀治越後國を給ひし時に及びて、三十郞直寄、丹後守に任ぜられ、かの國の目代になされ、坂戶の城を領す、殿下より一万石を給ひ、秀治又一万石を與へ、合せて二万石を領す同き五年の秋、東西軍起りし時、當國は上杉が代々領せし國なれば、上杉が催促に從ひ、所々に賊徒起りて、下倉の城をせむ、八月二日、丹後守直寄、手勢引ぐし後卷し、五百餘人が首切らせ、自らも太刀打して首を取り、同き三日、四日市の賊を討ち、二百餘人が首を切て、德川殿御父子に參らす御書ども賜て、其功を賞せらる、此功に依て、二万石賜り、合て四万石を領すといふ說あり、實記には見えず、覺束なし、同き十一年、左衞門督秀治卒し、越後守忠俊繼ぐ、十三年、監物直政死して、嫡男雅樂助直清、父に繼て監物と名のる、直清直寄、母同じからざれば、兄弟の間睦じからず、父亡くなりて後、相論の事起りて、明る十四年、直寄坂戸を去て、關東に參り、將軍家に此由を申し駿河國に上り、一封の書に愁訴を陳じて、大御所に獻る、
十五年の春、將軍家駿河に趣かせ給ひ、閏二月二日、両御所、直清直寄兄弟を召し决せらる、兄の直清訴へに負く、越後守忠俊、直清を援けしに依て、主從共に罪かうむりて配流せられ、直寄は御家人に召し加へられ、信濃の國飯山の城賜る、二万石然れば初め四万石を領せしと云ひしは覺束なし、但し初めの四万石も、一万石は太閤より給ひ、一万石は秀治より與へ、大御所より給ひし所二万石、合せて四万石、此度忠俊の國亡ひし上は、太閤秀治より賜ひし二万石は、自から失せて、大御所より給ひし二万石ばかりを元のまゝに賜ひしにや覺束なし、此年十月九日、駿河國府の城、故あつて殿舍悉く燒失せぬ、直寄火救うて功ありしかば、明る十六年地加へ賜つて賞せらる、一万石を加られて三万石を領す、此時美濃國にて賜りしにや、直寄が領信濃と美濃とにありき、
直寄眞先に御寶藏に馳せ來て、火を救ひしに依て、數の御寶多くの金銀燒けず、又火救ふべき料の器毎に、おのが名幷に悉く數いくらの內といふ事を書きて、彼處此處に捨置きけり、その頃は、世にかく火救ふべき具など儲へし人なければ、直寄が捨てたりし器取りて、火すくふ人も多し、今日の功、獨直寄に歸して、かねて用意の程も神妙なりと御感に預りしとなり、
初め八萬石を賜ふ、程なく江戶の城を築かれし時、十萬石の役承るべきよし望しかば、九萬石の役を仰せ下さる、其後また所領の田檢地せしに一萬石を得しよし申て重て十萬石の役を望しに依て、其請に任せらる、此事元和四年の事にや、一說に坂戶を領せし後、信濃の川中嶋を賜ひ、元和二年、越後の高田に移り、同四年村上に移ると云ふ、悉く誤れるに似たり、古き人の申せしは、此人常の願に十萬石を領せば、時に乘じて天下をも知らるべき者なりといひしが、八萬石領して後、如何にもして十萬石に至らん事を思て、かくいろ〱に謀りて、遂には本意の如くなりしなり、誠は其租入十萬石はあるまじきなり、おのが家の士に祿あたへし樣、又めづらかなり、たとへば百石をば二百石と註し、千石をば二千石と註し與ふ、汝が我が家を去りて、他の主に事ふる事あらんに、今までは如何ほどの祿、知行せしぞと問はれん時の爲なりといひき、當世に名利を求むる輩は、まづ此人の家に仕へん事を願ひしかば、高名の侍、多くありしとなり、すべてこの人の身の上、いろ〱の物語多き人なり、いま吉祥寺にある大佛の塑像も此人の模成して庭にすゑおき、もてあぞひし所なりといふ、誠なるにや、
直寄六十三歲にて、寛永十六年六月廿九日に卒す、嫡子兵部大輔直次、廿九歲にて寛永十五年七月十五日父に先立て卒しければ、直次が子千之助直定は嫡孫なればとて、家を繼がしむ、千之助直定四歲にして、祖父が家を繼き、寛永十九年三月二日、七歲にして、世を早うしければ、家絕えぬ、
丹後守藤原直時、故丹後守直寄が二男、父が卒せし時、其所領分ち賜ふ、越後村松の地三万石、開發の田なりしにや、寛永十九年十二月叙爵し、明れば二十年二月廿九日卒、廿七歲、これ家の說なり、世には千之助直定卒して家絕しかは、直時に三万石を給ひしよし申なり、其男丹後守直吉、家を繼ぐ、延寶四年十月廿五日、四十歲にして卒す、男左京亮直利つぐ、
式部少輔藤原直之は、監物直政が三男なり、將軍家に仕へて大坂の戰に自ら首きつて獻る、この時には三右衞門、左大臣家の御時、寛永の初め始て寺社奉行職を置かる、直之堀市正利重、二人其職を司る、直之越後の國村松の地、一万石を領す、其男式部少輔直景父に繼て、御使番となされ、時に三右衞門と申す、右大臣家の御時には万石を領せし御使番ありき、寛永八年九月町奉行職に補せられ、同き十五年御詰衆になされ、寛永八年十月十日致仕し入道して宗三と號す、此兩代卒せし年月いまだ知らず、その男飛彈守直良、家をつぐ、