伊勢守藤原高政は、豐臣太閤の家人なり、初め森勘八郞とぞ申ける、太閤未だ筑前守にて、毛利右馬頭輝元と戰ひ、天文十年六月1、羽柴毛利中直りして、互に人質を取替さる、毛利は叔父の藤四郞元綱に、桂民部大輔付て出しければ、秀吉は此高政が兄弟をぞ出されける、高政が弟兵橘某と云輝元、高政兄弟に向て、兩家の好みを合せたる始に、和君兄弟、我が許に來れるに、和君等が名字と、輝元が名字と、唱ふる所の同きこそ怪しけれ、然るべくは、我が名字まゐらせて、和君等と、永く兄弟の契、結ばんと思ふは、如何にと云ひければ、高政兄弟、森と云ふ文字を改て、毛利とは書きたりけり、豐臣家、天下知し召して後、召返され、叙爵して、民部少輔になされ、朝鮮の事起て、軍奉行を承り、大友が罪蒙りし年、豐後國佐伯の城を下し賜ふ、これ年來の軍功を、賞せられし所なり、文祿二年の事なり、佐伯二万石の地を賜ひ、日田玖珠二郡を預けられ、凡六万石を領す、當時豐後七人衆と云ひし其內なりき慶長五年の秋、山陰山陽南海西海の大名等、石田三成に與みして、德川殿失ひ參らせんとす、西海に取ては、黑田如水入道、豐前國中津の城に在て、雙なき東國の御方にて、家人栗山四郞右衞門尉を大將として、毛利が日田郡隈の城に差向く、高政が家の子毛利隼人佐、此城に在て、栗山が許に使立て、主にて候ふ民部少輔、身は大坂に在りながら、心をば關東に通し候ひぬ、さらば入道殿の仰に候はんには、此城をば下げ渡し參らせんとぞ云はせける、入道聞て、さあらんに於ては、此城は味方の城、でさんなれ、毛利が小勢、守らんこと、覺束なしとて、頓て城をば受け取て、栗山に軍兵數多附けて守らす、
- 天文十年六月 — 지면 그대로. 羽柴·毛利 화의(備中高松)는 天正10.6(1582)