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脇坂

第十上 · 단락 7 · 780525 5코마 R부터

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中務少輔藤原安治は、近江國脇坂の庄の住人、脇坂安明か男也、安明名は外介と云安明織田殿に隨ひ、永祿十一年本國觀音寺の戰に討死す、明れば十二年明智1日向守光秀、信長の仰を承り、丹波國に發向して赤井と戰ふ、安治其頃は甚內と申して、生年十六歲、光秀が手に屬して、能き敵討て首取る、此年始て淺井の郡にして、羽柴殿の見參に入る、元龜元年の秋、織田殿攝津國の戰ひ利あらずと聞て、秀吉近江國を立て信長の陣に馳せ參る、幼き者をば悉く跡に止めらる、安治一人密に隨ひ參りたり、秀吉うへには怒り給ひしが、其志を感じて鞍置たる馬一匹をぞ給たりける、天正四年織田殿丹羽五郞左衞門尉長秀を奉行として、安土の城を搆へ給ふ、石垣の御料に、御家人等大石數多獻る、丹羽が下部等、秀吉の參らせられし大石、盜み取らんとす、安治はしたなく行合ひ、腰刀を引ぬき、石に付けたる大綱小綱、一々に切て捨つ、彼の下部等、これを爭ひ、多勢の中に追取り籠め、旣に打擲に及ばんとす、安治此由を見る儘に飛び懸て、長秀が侍一人、取て質としてこそ歸りけれ、秀吉此を感し給ひ、初て所領を賜りたり、百五十石同き六年秀吉播磨國三木の城を攻め給ひし時、赤絹に輪違の紋付たる母衣、取り出してこれ賜らんと思はん者は、望み申せと宣ふ、安治進み出で、御許蒙つて賜はらばやと望みしかば、賜りてけり、其母衣着て城に向ひ、能き敵と戰ひ、首取て見參に入る、秀吉御感斜ならず、これよりして桔梗の紋、を改め輪違を紋とせり此年神吉の城の先驅し、十一年四月近江國志津が嶽の戰ひ、高名七人の中にして、其賞を賜る、五千石十二年信雄秀吉、中違ひありし初め、兼て信雄より秀吉に出されし人質、瀧川下總守雄利が男をば安治が預りたり、雄利使立て、夫れに候ふ息男が母、以の外に違例し、今はかうと見え候ふ、哀れ安治の御芳志にて、暫しが程此へ賜りて此世の暇乞をも、せさせばやと云せけり、安治哀れに思ひしかば、暫し許したらんは、何か苦しかるべきとて、送り遣はす、雄利頓て引具して、伊賀國上野の城に立籠る、安治安からぬ事に思ひ、押寄せて城を攻めんことを望む、秀吉聞も敢へず、天晴己も秀吉たばかつて、瀧川に與みせんと思ふな、己が勢の分際、いかで彼が勢に向て、戰ふことを得べきとて、以の外に怒り給ふ、安治急き己が母を質に參らせて打立ち、其勢僅か二十騎には過きざりけり、鞭鐙合せて打つ程に、伊賀國に入て、羽柴殿の御使として、安治是に來りたり、御方に參らんずる輩は、恩賞これ輕からずと言觸れ〱行く程に、國人等是處彼處より馳せ參る、今宵上野の城を襲ひ攻む、瀧川斯程多勢なるべしとは思ひも寄らず、取るものも取りあへず、上野の城を落て、伊勢の國にぞ去てける、安治早馬を參らせて此由を告く、秀吉大に驚き給ひ、御使を賜ひて、安治を止て彼國を守らせらる、明れば十三年五月、攝津國能勢郡を賜ふ、一万石此年七月秀吉關白に任し給ひ、安治に叙爵させ中務少輔になさる、八月大和國高取の地に移され、二万石十月又淡路國洲本の城を賜て移る、三万石十四年の秋、長曾我部、土佐守元親仙石權兵衞秀久加藤左馬助嘉明等と、豐後國に押渡り、大友が兵と共に嶋津が勢と戰ふ、味方散々に討ちなされて引き退く、安治嘉明二人止つて戰ふこと止まず、關白の御感をぞ蒙りける、十五年の春、關白自ら島津を伐ち給ふに、安治嘉明九鬼大隅守嘉隆と共に兵船を泛め、薩摩の國に向ひ隍河の城を降し、千代川に舟橋渡して御勢を渡す、十八年相摸の北條が亡びし時、安治四國の人々と東海を押渡て、伊豆國下田の城を攻め、關白の召に隨ひ嘉明嘉隆等と、同じく小田原に馳せ來て城を攻む、下田の城降りぬと聞えへしかば、安治行き向て城を受け取たり、文祿元年朝鮮の軍起る、安治又嘉明嘉隆等と、海路の先陣を承て押渡り、王城に攻め入る、釜山より王城に向ひて、道路やゝもすれは差塞り、味方の往來穩ならず、安治が計らひにて要害一所搆へて、軍兵を分て守らす、三百人を分つと云今年六月朝鮮の兵數万人、押寄て彼の要害を攻む、安治此由を聞き急き王城を立て馳せ向ふ、城中よりも切て出つ、寄手散々に討ちなされて逃け走る、首を切ること一千餘、生捕は二百餘人と記したり、斯る所に朝鮮の水軍、夥しう巨濟を差して押向ふと聞て、嘉明嘉隆と共に夜を日に繼て馳せ歸り、熊川に至る、安治急き兵船に取乘り、眞先に進み、見乃梁の邊にて彼の全羅水軍節度使李舜臣等が兵を討ち破り、海の面三里が程を追ふ程に、敵の船一度に取て返し、安治を眞中に追取こめて攻め戰ふ、安治が乘たる船を始として、船共多く火砲の爲に摧かれ、討るゝ者數を知らず、安治も希有にして遁れ、金海にぞ歸りける、太閤此由を聞召し、急き藤堂佐渡守高虎を差向られ、安治が武勇の程を感ぜらる、されども安治安からぬことに思ひ、僅に殘る軍兵を引具し人まぜもせず、敵の船に押向ひ、自ら攻め戰て其船を奪ひ取る、此後合戰度々にて、明れば二年二月廿一日の戰に、李舜臣が巧み出して作りたる板屋船を乘取りぬ、此日安治九鬼と彼船を爭て、同士軍せんと、ひしめく軍の撿使早川主馬首長秀これを制し、太閤の御裁斷を仰く、頓て御敎書をなされ、安治が功を感ぜらる、此年安治は安骨浦の城に留て守り、嘉明嘉隆本朝に召歸さる、三年の春嘉隆來て安治に代て彼城を守る、四年の春安治又嘉隆に代て守る、慶長元年の春、本朝に歸りぬ、同き二年大明の和親破れて、四月安治等又朝鮮に押渡り、藤堂加藤九鬼の人々と熊川に入て船揃へし、七月七日の夜、巨濟に押渡て、彼國の統制使元均等が軍を討破る、安治が手に乘取る所の敵船十六艘、此船軍の事、委しく加藤嘉明が傳に見ゆ今爰には安治が碑文に隨て記しぬ殿下御敎書をなされ、其功を賞せらる、同き八月十五日の夜、南原城を攻め落し、安治が手に二千餘人が首を切る、
  1. — 지면 그대로. 明智光秀의 丹波 출진(赤井氏 공격)은 天正3年(1575) 이후의 일로, 永禄12年 기사로 둔 것은 통설과 어긋난다
此戰の事、安治が碑の文に九月十五日の夜、藤堂高虎と共に先驅し、泗川の城を落すと錄せり、泗川と云へること不審、これ南原の事なり、又南原の敗れしは八月十五日の夜の由、大河內秀元が記にあり、此時太田飛驒守一吉と、藤堂、と先駈を爭ひしことあり、南原攻口の圖を見るに、高虎安治が陣並びて西南の隅に當れり、二人一所に攻めし事さも有りぬべし、朝鮮の書にも八月十五夜と見ゆ、大明の書には、八月十六夜と見ゆ、誤れるか、碑文の記す所は地の名と月と共に異なり、されども此碑は林道春の撰ひし所なれば、據あるべきにや、覺束なし、
同き三年四月安治、蜂須賀阿波守家政と、共に蔚山に趣き後卷し、寄手の多勢と戰て首數多打取る、此年の夏本朝に歸る、六月廿二日この年頃の功を賞せられて、所領の地加へらる、三千石程なく大閣薨し給ひ同き五年の秋、德川殿、奧の上杉退治あるべしとて御下向あり、安治我身は大坂に留て、嫡男淡路守安元に軍勢付て、奧の御陣に參らす、上方にも亦軍起り、道路塞て下ることを得ず、同九月十五日關が原の合戰の時、安治安元父子かねてより山中に陣取て、上方の多勢を打ち破り、頓て御陣に馳せ參る、德川殿の御感斜ならず、父子同く近江國佐和山に差向けらる、此をも頓て攻め落す、安治又仰を承り、大坂に向ひ川口をぞ守りける、十四年九月伊豫國大洲の城を賜て移る、二万石を加へ賜り五万三千石餘を領す大坂前後の戰には、子息安元馳せ向ひ首切て獻る、元和元年安治致仕して、同三年洛陽西洞院の舊宅に引籠り居て、寛永三年八月六日年七十三歲にて卒しけり、嫡子甚內安忠、世を早うしければ二男淡路守安元、家を繼く、安元童名は甚太郞、慶長五年正月德川殿執し申させ給ひしに依て、叙爵して淡路守に任ず、此年東西の軍一時に起る、初め安元父が代官として、軍勢引具し奧に向ふ、上方の軍亦起り、道路差塞て近江路より引返し、東國に使參らせ、又山岡道阿彌入道に就て、父子共に西に在て、裏切り仕るべき由を申しければ、御消息を賜て其志を感ぜられぬ、關が原合戰の時、父子共に敵を破て御陣に參り、又佐和山の城を攻め落す、大坂前後の戰に隨ひ、首切て參らす、
此時風便宜からず軍勢等海を渡ることを得ず、無勢なれば首僅か二つ切て參らす、此は父安治、子息安元を東國の御陣に參らせし上は、大御所の新恩には報い奉る、さすが我身は故太閤の舊恩蒙りし事なれば、軍勢をば止て參らせざりしと云ふ、用意の程哀れなり、
元和元年父が讓りを受て、同き三年信濃國伊奈郡を賜て、飯田の城に移る、上總國一の宮の地五千石合て五万五千石也此人弓矢の藝に堪能なるのみならず、文道に心を寄せ、和漢の文書、家に貯ふる事これ多し、中にも和歌の道を深く好て、詠る歌秀逸少からず、
此人當時武家第一の歌人也、讀める歌世に傳る所多し、寛永の頃諸家の系圖を召されしに、此人の奉つる所は、祖父の代より記し初めて、其初に北南それとも知らず此糸のゆかりばかりの末の藤原と書て奉りしかば、將軍家にも殊に御感斜ならず、其頃は上も下も斯くあはれ深き事共多かりき、
去れば文武の譽世に偏し、年積て七十歲、承應二年十二月三日に卒す、男子なかりしかば舍弟虎松丸を安治か第五の男養て子とす、從五位下佐渡守になされて、安經と名乘る、世を早うしたりければ、將軍家の仰せ蒙て、堀田加賀守正盛が弟を子とす、左兵衞安利と申す、是も世を早うす、加賀守正盛が二男を養て又世嗣となす、初め甚太郞安吉と申す、慶安四年十二月廿八日叙爵して、中務少輔に任し、安元卒して家を繼く、五万三千石、二千石は同六右衞門某に分つ寛文十二年五月十四日播磨國龍野の城に移る、本領の儘