○信長公平手政秀を惜み給ひし事附小瀨甫菴信長記太閤記を著せし事
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小瀨甫菴後に此事を傳へ聞きて、信長記を編まざる已前ならば必ず其中に書入るべき事を。遲く聞きて殘多し、と言けるとなり。中務大輔政秀は備後守より信長の傅に附けられたり。信長甚だ善からぬ事多かりしかば、度々諫爭ひて後國の亡びん事を料りつゝ、一封の書を留置きて自害して失たる事、世に普く知りたれば具に記さず。中務始は淸秀と云ひける故、諸書には皆淸秀と記したれども、後に政秀と改めける故、諫死の後信長尾州名古屋に一寺を建られ政秀寺と稱し、寺領二百石寄附せられ、臨濟開山派京都妙心寺の末寺にて、中務の墓も其寺に有り。寺の緣起に、政秀葬送の時信長柩に手を懸けられたる由記せり。小瀨甫菴は町醫にて加州金澤に居り、利家の臣橫山山城守長知の許に心安く常に來て每夜伽しけり。長知は尾州の人にて織田家の事能く覺えたりし故、信長の事を甫菴每夜尋ね問ひ、且秀吉の事をも問ひける故、長知或は委しく或はおろ〱語り聞かせけるを、甫菴退きて書記し、信長記、太閤記二部の書を著し、世上へ出しけるを長知聞きて、信長太閤の事を書き記さん爲めに尋問ひたらんには答へんやうの有るべきに、遺漏も多く殘多き事なり。其事を聊も知らせざるに依りて、只一座の物語に云ひ聞せたるを其儘に書き著したるは、今に於て甚遺憾なり。甫菴馬鹿者なり、と長知言ひしとなり。長知は初浪人にて叡山に寄宿し、諸國を武者修行して後前田家に仕へ、大膳と云ふ。加州大聖寺、小松、越中、末森などの軍に武功有りて一萬五千石領し、其後同州太田但馬守を放討にせよとの命を受け、太田の祿一萬五千石を合せて三萬石を與へらる。長知大功の人にて人の勇武をさのみ目に揭けず、大方の事は稱美もせず。只武士の有る可き事と心得たりし故、甫菴に語りたる事遺漏多くて悔みけるとぞ。