東照宮の御女を北條氏直迎へて、兩國和平なれ共御對面無かりしかば、天正十四年三月使をもて拜謁して、要害國境の城々守りの兵を輟め候べし。黃瀨川を渡り伊豆に至る可きか、と仰遣されしに、酒井忠次、黃瀨川を越え氏政父子に御對面候ひなば、北條家の旗下に屬し候と同じ事にて候。今德川家は五州の御主なり、如何でか北條家の旗下に屬すべき。德川家の瑕なり、と諫め申す。東照宮、去れば其位爭無益の事なり。過し比武田上杉和平して犀川を隔てて對面の時、馬より早く下りたる方旗下に似たりとて忽ち事破れ、其場より鐵炮を打合ひ、諸卒血に染みて相引にしたりき。其時信玄二十七歲、謙信十八歲の時なり。夫より和平して京を指して上らんには、信長も吾も爭か支へ得べき。其故に兩方に使を以て道理至極せりと言はせしかば、兩將二十四年の間和平せざりき。其中に信長は近江和泉を打從へ、吾も援を出して信長を後にして根を深くするの謀をせしが、信玄死して勝賴父に優るべきと威を振ひ、暴逆して滅亡したり。信長又勝賴に勝りて驕長じ、樣々善らぬ事のみ有りて終に弑せられぬ。斯の如き大將は滅びて終を善くせざる事理なり。夫を見て戒とせず、位爭をするは惡き事なり。氏政吾と二心無く言ひ交さんに、兩旗にて東國を打平げなん。其時に及んで州數多領する者上座に在ん。位爭ひ更に益無き事なり、とて伊豆の三島にて氏政、氏直に御對面あり。