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○立花道雪高橋紹運猫尾城の寄手に加はる事附道雪死去の事

卷之八 第5話 · 段落 1 · NDL 1078984 147コマ L

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天正十二年、大友宗麟猫尾の城を圍みて數十日攻むれども落ちず。大友の兵、長陣に氣疲れたりと立花道雪、高橋紹運聞きて、宗麟に馳せ加はり然るべし、と相謀り、俄に兵を出し、二夜の腰兵粮を附けよ、と陣觸して、八月十八日打立ちたり。士卒是は何方へ向はるゝやと怪みながら、下知に從ひて、三笠郡內山江原へ打上る。是より黑木の猫尾へ押行くべし、と下知し、紹運先陣たり。今宵ははや夜半過ぎたり、月傾きぬ。筑後川の邊にて夜は明けなん。然らば敵の中數十里押通る事は如何あらん、と紹運の從士言ひければ、道雪へ斯くと言ひ送らるゝに、道雪色を變へ、あはれ早く夜の明けよかし。見晴して敵出でば、撫切にして通るべし、とて乘物を叩かれしかば、使者に行きける萩尾大學、由なき使をして恥辱に逢ひたるぞ、とて馳せ歸る。紹運の從卒の謀し如く、筑後川へ押著くれば夜明けたり。渡る處はかたの瀨と言へり。瀨蹈にも及ばず、混々と打入れ渡る。秋月種實の士、芥川兵庫といふ者、五十騎許にて星野城より番代して歸りけるが、何方より、誰の軍を押させられ候哉、と問ふ。紹運、餘すな、と下知し取卷きて、一人も殘らず討ち取り、首を小高き處に並べ軍陣の血祭したり、とて夫より石垣原へ押出し、後陣を待ち揃へ、耳納山を越えんとする處に、秋月種實、筑紫廣門の兵共、所々方々より兵を出し、爰のつまり、彼處の切所に待ち受け、鐵炮を打ちかくる事數を知らず。中にも大木を小楯にして、其蔭より顏計出して鐵炮を搏つ者あり。殊に手練にて手負數多に及べり。道雪の乘物舁きたる人にも中りて倒れしかば、乘物をはたと落しぬ。道雪怒りて、彼を討て、と下知して傍より頻に鐵炮を搏ちかけたれども、面計さし覘きて鐵炮を打出せば、狙ふべき透間無くて、中中當らざりしかば、道雪、如何に紹連1の士に手練は御座さぬか。彼討たせ給へ、と詞をかくれば、紹運市川平兵衞といふ士に命ぜられけり。平兵衞、承り候、と言うて、鐵炮を構へ待つ所に、又彼の木蔭より面を差し出しければ、市川手利き早に搏ちたりしに、眉間に中り轉び出て、俯伏に倒れ死す。敵前後より取挾みければ、後陣の由井雪加より道雪へ使を以て、唯今討死を遂ぐべし、と申し送るを聞きて、紹運大返に返さずば味方の後陣危くて、此の切所を越え難かるべし、とて取つて返し、敵を拂ひて耳納山の嶺に押上げたりしかば、早や夕日に及べり。諸卒遙々と押來りしかば、疲を休めよ。今宵は爰に陣す可し、とて曠原に折敷かせたり。俄に雨降り來れども、兩將打廻りて士卒に詞をかけ勞はらるゝに、本より兩將の恩惠に懷き服したる者共なれば、些とも疲を覺えざりしとぞ。斯くて一夜は其處に陣し、明けの夜黑木に押附けられしかば、豐後の兵競ひ合へり。宗麟も、兩將の擧動鬼神の業なる可し、とて崇敬し、諸卒に及ぶ迄遇し爲られけり。然れども宗麟には人々思ひ放れたりし故、田原親家も俄に心替して、兵を引具して豐後に歸りければ、思ひ〱にて事ゆかず。宗麟も引き返されしかば、兩將も高良山に陣して其の年も暮れぬ。明る天正十三年の夏に及びければ、陣替爲可しとて、紹運は赤司に屯を換へ、道雪は北野村天神の壇に移られしに、病み附て次第に重くなりしかば、吾死したらば屍に甲冑を著せ、高良山の好巳の岳に、柳川の方へ向けて埋む可し。此事背きなば、我魂魄必ず祟を爲すべし、と遺言して、九月十一日七十一歲にて終られけり。斯くて此の由、十時攝津守を使として、立花の城に遣り、統虎に斯くと申す。屍骸を只一人棄置かん事、人の誹も免れ難し。立花へ歸し入る可き旨答へらる。十時陣所に歸り此由を言へば、由井雪加、然れば仰の趣は不可なるに非れ共、遺言の重ければ背き難し。雪加先づ爰にて腹を切り御供に參る可し、と言ひければ、由井大炊、某も腹を切り、右脇の御供に我立つべし、と言へば、誰も爭か殘る可き、と殉死すべき人餘多に及べり。その時原尻宮內少輔熟々と聞きて、各達、唯名聞を好みなんには然るべけれども、統虎公の御爲に善かりなんや。夫程に存ずるならば、嗣君にも御腹召させたらんこそ良からめ、と荒らかに言ひければ、雲加2聞きて、尤に候。然る上は我思ひ止るべし。棺をば立花へ歸し參らせ候らはん事然るべし。祟のあらんには、雪加が一族罰を蒙るべし、とて九月二十四日陣拂して、道雪の棺の供して立花へ引き取りけり。
  1. 誤植 — 底本「紹連」。振り仮名「ぜううん」から「紹運」の誤植か。
  2. 誤植 — 底本「雲加」。振り仮名「せつか」から「雪加」の誤植か。