新納武藏守忠元は島津家の士大將なり。勇名を以て指を折る時第一なり、とて大指武藏と稱しけり。義久秀吉に降參の時、新納は肥後の堺泉の城に在り。一說に大口と有り日本國の軍を引受け一戰をせずして降參せんは弓箭の無禮なり。疾陣を寄せさせ給へ。一軍して討死仕らん、とぞ申し送りける。秀吉頓て師を城下に進めらるゝに、彼の城の路三四里が程は、馬の鞍を下し靱の紐を解くばかりの嶮難にて輙く打入り難し。武藏守暫く支へて後、一說に義久斯くと聞きて大に驚き疾く降參せよと下知せられしといへり今は是までなり。主君旣に降參せし上は家臣の身として爭で其の心に背かんや。弓箭の禮儀を以て斯く申したるにてこそ候へ。日本の軍を城に引受くる事、士の一面目にて候、とて城を出でにけり。
○新納武藏守豪氣事の1
人物地名家(氏)官職日付索引へ
- 誤植豪氣事の — 底本の標題「豪氣事の」は「豪氣の事」の活字の入れ違いか。
一說に、島津降參の後、鹿兒島の外の城々は壞つ可き由秀吉下知せられしに、新納は城に籠り專ら防戰の手段を爲し、其身も病と稱して引籠り居たりしに、秀吉聞かぬ體にして歸京ありけり。其後島津上京し武藏守も供したりしに、程經て秀吉、何とて新納が城をば壞捨てず、合戰の設したるや怪しき事なり、と問はれしに、武藏守人々の答を待たず進み出て、仰せ出されし旨義久下知せしか共、承り入れずして軍を志し居たりしに、踏過ぎて通らせ給ひしこそ恐多く候へども恨しく存候へ。其子細は、城を開く事も古より其例無き事に非ず。只今日本の主と世に稱し申し候關白樣、遙に筑紫の果迄引出し奉り、鹿兒島に申請け候事は島津が家の譽とや申さん。新納の城を破り棄てずば、惡き奴め踏潰せとて軍兵を向けられんは必定なり。其時一戰仕らば、關白の御馬を向けさせられたる城なりと末代迄も申し傳へなんには、子孫の面目是に過ぎたる事や候べき。討つて出で火花を散し、一足も引かず討死したりとも、是又武名とや申すべき。敵に箭一筋も射かけずして城を破り捨て候事口惜く候ひき。新納は日向口に在りて、宮部善祥坊を始として先陣の人々に迫合ひたりしに、島津降參の由告げ來り引返し候ひぬ。島津が兵を以て日本國の大軍を引受け、合戰始終の勝利を計る可きには候はねども、新納肥後口を防ぎたらんには、地は嶮なり。關白殿下如何に智謀逞しく御座しまし候とも、輙く攻入り給はん事は思ひも寄らざる事なり。嶺々谷々より種ヶ島の鐵炮を打掛け、思ひの儘に先陣を打惱し申す可きに、今に至りて殘念なる事共なり、と恐るゝ所なく申しけるを、秀吉聞きて、新納は聞き及びたる勇將なり、とて大言の咎は更に無かりけり。