秀吉黑田勘解由孝隆に豐前國を與へられしに、一揆處々に起る。中にも岐井谷友房は元下野國宇都宮彌三郞友綱が次男、鎌倉の比より地を領したる子孫なり。毛利壹岐守勝信に誘れ、地士を驅催し民屋に放火す。黑田父子は馬の岳と云ふ城に有りけるを、城下に押寄する。長政其時十六歲。岐井を討つ可きと勇まれけれども孝隆同心せられず。長政其頃は吉兵衞と言ひけるが、若士共引具し切つて出づれば、一揆共一支もせず敗北するを追掛けたり。岐井は山中の嶮路にそびき入れ、多くの大石の蔭に逃げ隱れたり。大野小辨と言ふ若武者眞先に進みたるを、一揆起り合せ七八人取卷きて馬より突き落しけり。後藤又兵衞、小河傳右衞門、久野四郞兵衞馬の首を引返し敗北しけれども、長政の馬廻は眞丸に成りて、一揆勝に乘り押詰めけれども鎗を合す。一揆は木蔭谷蔭より五人十人駈け出で、狩場の鹿を射る如く竹の鏃の矢にて雨の降る樣に射たりけり。長政馬より下り立ち討死すべき色なりしを、近習の者共馬に搔乘せ退きければ、一揆頻に追駈けり。長政の馬矢に中りしかば爰にて自害せん、と言はれしを菅六之介政利、己が馬に召され候へ、と言へ共聞入れず。早上帶を解かんとせられけるを三宅三大夫後に若狹走り寄り、大將の自害の所にては候はず、とて搔抱き馬に打乘せ、片手に馬を牽き片手に長政を把へて、我等生殘りたるに殿を追討つとや、念もなく候。地の利を見て引返し、一揆の奴原追崩し申さん、とて引退く。菅は長政の鞦の組違に手を掛けて少も離れず。木屋兵右衞門は長政の鎗を持ちて步立にて續きたり。一揆長政と見知り餘さじと附慕ふ。三宅、菅、木屋を始として岡本彌兵衞、小河久大夫、坂本七左衞門已下五十人許丸く成りて、思ひ切つたる色を見て靜に詰寄せて、二里許追駈て其後は慕ざりけり。後藤は如何したりけん、猩々緋の羽織を脫捨たりしを長政取らせ歸られけり。
○黑田家岐井谷合戰の事竝小川傳右衞門野村太郞兵衞岐井友房を斬る事
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後藤度々の武功有りて一萬四千石與へ小隈の城に在りしが、後に岐井谷の軍物語に及べば俄に病み出でしとぞ。木屋兵右衞門は長政に向ひ、後藤、小河が有樣大臆病の男にて候を、親子共に取分て懇に爲させ給ひ候。此兵右衞門は誠にあるにもあらぬ體に候へども、敵追詰め來りなば一番に討死して御目にかけ候べし。偖も〱歎かはしき御眼力や、と飽くまで罵りて退きけり。其後長政筑前を賜はりしに、小祿の士皆祿を增したりしに、兵右衞門は六百石に鐵炮の者二十人司れり。さのみ賞美無かりしかば、人々、木屋に殿を岐井谷にて罵りたる事を、嫉く殿は思召して斯は有るならん、と言へば、木屋、我も左思ふ事よ。此憤ならば首をも刎ねられなんと思へどもさも非ず。是より後も軍有らば度每に大言を吐きちらし、只今寵愛に誇る奴原の中に武者振の惡き者有らば、恥を與へん事我思ひ出なり、と言ひければ、聞者、汝は下部の所謂口に倒されなるべし、と諫めければ、今の祿を削らるゝとも口はきゝたき事よ、とて笑ひけるとぞ。
孝隆は馬の岳の矢倉に上り、長政の敗軍を見て笑ひ居られしかば、側より、危く候、疾加勢をせさせ給へ、と口々に言ひけれども、否々引き後れたる味方の眞丸になり、靜々と道を引退くは吉兵衞なるべし。危ふげもなし、と言はれしが、果して長政事故無く引返されたり。長政敗軍を口惜しとて引籠り、夜の物打被きて臥し居たり。孝隆物主を呼びて、弱敵をば恐れよ。初の勝を勝にするものなり。勝すぐれば必ず敗の本なり、と戒められけり。鹽屋善七郞といふ侍長政の近習に仕へしが、京に使に行き、此日の暮頃に歸りて長政の寢所に行き、今日の敗軍是非も無き事に候。然ばかりの者共小辨を捨殺し、殿をも捨てて逃げたりと承り候。殿もよき討死の所にて候ひき。何とて敵に後を見せ給ふや。父祖の高名に瑕附き申すこそ口惜しけれ。善七郞が御馬の傍に在るならば鎗を合せ、一揆の奴原追立て引取るべきに、後藤奴穢き振舞に候はずや。重ねて一揆と軍有らんに必死と思召し定められよ、とて坐を立ちければ、長政も髻を拂ひ思ひ切つたる體なり。翌日善七郞又申けるは、あながち口惜しとな思召され候ひそ。一揆押寄せ候はば眞先駈けて切崩し恥を雪ぎ給へ。善七郞は御馬の先にて討死せん。逃げたる奴原も勵まされて軍する程ならば、鬼神なりとも恐るゝに足ず、と云ひ慰めければ、長政起き上り物語せられけり。長政は面目無しとて父の前に出ず。孝隆、扨は必死を期したるなりと察し、老功の者數多長政に差添て早りたる下知を禁ぜられけり。一揆又上毛郡へ押寄せければ、長政火隈の海近き所の山に上り、待ちかけて思ふ圖に引受け、一同に乘出し馬の駈け場よかりければ、縱橫に乘り割り、一揆敗北する處を追立てたり。鬼木鹽田など言ふ者討たれ散々になりけるを、長政鹽田內記を手づから討取り、尙も追ひ駈けんとせられしを、老臣共馬より飛下り押へて陣を整へけり。鹽屋善七郞は敵の中に乘入り鬼木掃部が首を取り、右の方を見れば長政敵の首を取りたりしかば、又馬引寄せて打乘り、追詰めて首二つ取りしが、痛手負ひて精神も亂れたるが、尙も若殿の功名を問ひ聞きて、嬉しや先日の恥辱を雪がせ給ひぬ。此上は思ひ置く事無し、と云ひけり。長政善七郞が枕元に居寄られしかば、長政の手を取り、此後能く心得候へ。殿に討死し給へと申す者は無き事に候、と云へば、長政淚を流し、汝を先立つる事の殘多さよ、と咽ばるれば、善七眼を見開き、先の頃諫め申せしは必死を思ひ定めたる故に候。今度の高名こそ目出たけれ。今生の御目見只今を限りなり。人は一代名は末代と申す事の候、と言ひも終らず空しくなりけるとぞ。比類無き者なり、と云合へり。翌日孝隆火隈に來りて對面し、若き者は懲る事無くては思慮の練れぬものぞかし。終の勝を計れ。只勝つべきとのみ思へば敗を取るなり。良將は時により緩に見ゆれども、卒爾の軍は爲ざる故に終の勝を全うするよ、と敎へられぬ。長政又押寄せんと云はれしを、孝隆制して要害を設け、兵粮の道を塞ぎ馬の岳に歸られけり。斯て一揆勢盡きければ、毛利輝元を賴み和平しけれども、友房は病とて出ず。中津川より三宅三大夫、岐井谷より傳法寺兵部、使者往來して互に物語しけるに、或時三宅言ひけるは、友房內室なしと聞く。勘解由に妹あり、婚禮あらば如何に、と云ふ。傳法寺、夫は悅ばしき事なり。能計はれんや、と言ふに三宅、我年若ければ老人と相計りてこそ、と言ひけり。傳法寺は敵の妹を人質に取らんは然るべしとや思ひけん、わりなく三宅を賴みけり。三宅、我主君の心をも知らで容易にも申出でたる哉。事調ずば面目も候はず、など言ひて、長政に斯と告げて孝隆にも告遣りしかば密謀をなし、三宅に孝隆書を與へ、緣を結ぶは末賴母しき事なれども、例の麁忽ならん、とぞ書れける。三宅傳法寺に語りて潛に其書を取出して見せ、吾をば常に麁忽者と戒め候が此度も又然なり、と言へば、傳法寺、是は旣に聞屆けられたるなり、と悅び、斯と友房に告げて、是より心置なく中津川へ出づべきにぞ定りける。三宅又迎に往けば友房三百人許にて山中を打立ちけり。三の丸の大手にて人を留め次第に減じてけり。本丸の書院にて對面あり。吸物を出して酌は小川傳右衞門なり。野村太郞兵衞肴を挾むを相圖に、傳右衞門一の太刀、太郞兵衞二の太刀と定めたり。長政盃を指しける時野村肴を持ちて出けるが、持ちたる臺を友房に投附飛びかゝり眉間を切る。小川後れたり、と脇指を抽いて切附くれば、さばかり逞しき友房卽討たれけり。供の者をば所々に手當して物具したる者共鎗竦にして殺しぬ。岐井谷へ軍兵を指向けて打滅されけり。小川野村一二の定有りしに違ひたりしかば、小川怒つて其夜野村に言ひけるは、岐井を吾初太刀たるべきに先を越れ面目を失へり。如何に、と問ふ。野村打笑ひ、左思はるゝは理なり。能く聞かれ候へ。年を言へば吾は弟なり。汝功名は四度に及び我は唯二度なり。是程劣りたる者、そなたに先をさせて、我後れなば是こそ面目を失ふと言ふべけれ。栗山か又我兄の多兵衞とならば前後を爭はれん事似合たるべし。斯く劣りたる我に爭はれんは大人氣無し。只免され候へ、と言ひければ、小川、素より心易き事なり。但心安くも切られたり。尤、とて愈親みければ、人々、野村が理も聞事なり。小川も能く聽入れたり、とぞ感じける。