岐阜を攻破る時、黑田、田中、藤堂等の諸將は犬山を押へたりしに、犬山の城明退きける故、岐阜を指して打向ふ所に、大垣より石田、島津一萬餘打出でて押來る。頃しも八月雨の後、合渡川水嵩增りたり。諸將香が島の札の辻に控へて、各將机に據りて、川をや渡す。待ちてや戰ふ、と評定して決せず。高虎銀の天衝の立物打つたる冑を著、黑母衣掛けたる武者は黑田家の士大將後藤又兵衞なるべし。存する旨を聞かばや、とて扇を揚げて招かれしかば、後藤母衣を搖り駈けて來り跪く。高虎、如何に此川を渡るべきか。待ちて利有る可きかと、先の程よりいへども決せず、と言はれしかば、後藤打笑ひ、評定も時により候。今日岐阜の城攻に後れまた爰にて一戰無くば、內府に御面目は候まじ。川を討死の場と極められん事然るべし。然らずば男子にては候まじ、と大言すれば、諸將尤なりとて川を渡されけり。