古田助左衞門は古田兵部少輔重勝に仕へて祿千石を受く。景勝を征伐の時、重勝伊勢の松坂の城に助左衞門を置かれけり。三成兵を起せし時、大坂の重勝の屋敷を取圍み、松坂の城を渡さずば重勝の北の方を殺害すべし、と言ひ送りしに、助左衞門、此城は殿の仰無くて人に渡さん事存じも寄らず。若さ非ずば北の方害に會ひ給はんとや。誠に悼しき事なれ共如何にせん。妻子の死するが悲しきとて城を敵に渡せしと、殿を人譏り申すべし。運盡きたらば死を潔くする事、弓箭取る身の習なり。人々は大坂の屋敷にて如何にも成り候へ。敵軈て城に寄來らば散々に軍して討死し、冥途にて對面せん、と大坂の屋敷に云ひ送りけり。斯る處に重勝も東國より歸り來り、松坂に立籠る。此時富田信濃守信高阿濃津を守られしが、加勢を重勝に乞ふ。兵を分ち遣るべき體の無かりければ、助左衞門、阿濃津へ加勢有らん事尤望む所なり。敵阿濃津を攻めて其後爰に攻め來らん。若阿濃津落ちざる前に東方の味方來らば敵敗北せん。其時は古田が士は敵の旗をだに見ず、富田が力にて松坂を持ちたりなど人に笑はれ候べし。又加勢有らば隣國相援ふの義に叶ひ、又阿濃津にて敵を防ぎしは、古田が加勢の故なりと世に申すべし、と勸めて五百人の軍兵を阿濃津に遣りけり。軈て重勝の領地の百姓の中に大家なる者二十人を士として城に籠せ、後に百石の地を與ふべし、と約しけり。是人質の心にて百姓を騷せじとの術なり。關ヶ原の亂治りて後、重勝約に背かんとせられしかば、助左衞門、信を失ふは君の道に非ず候。斯る言葉は金石よりも堅くすべき事なり。是より後又欺かんとて百姓共何事も聞き入れ候はじ。信無くば立たずと申す事の候。臣が祿地を分ち與ふべし、と言ひければ、重勝約の如くせられけり。