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○伊勢國阿濃津城軍の事附佐治縫殿が事

卷之十五 第1話 · 段落 2 · NDL 1078984 244コマ R

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毛利秀元、吉川廣家、富田信高の阿濃津の城を攻むる時、城兵城の乾の隅に有りける伽藍を燒拂ふ所に、俄に風變りて焰を城に吹きかくる。寄手是に乘じて、いざ打破らん、とて宍戶備前守隆家先駈して攻入りけるを、分部左京亮政壽城中に加勢有りしが、切つて出で宍戶と戰ひ、互に痛手負ひたり。信高本丸の大手に進み出で鎗を合せて相戰ふ。斯る處に容顏美しき武者緋威の物具中二段黑革にて威したるを著、鎗を提げ來り、富田が矢面に立塞り支ヘ戰ひたり。秀元の兵中川淸左衞門といふ者を討取りたりといへり斯くて富田門に入る時、彼の武者を見れば殿は恙無く渡らせ給ふか。討死聞きて形は女なりとも男に劣るべきやとて出候ひしに、と言ふを聞けば信高の北の方なり。信高の北の方は浮田安心の女也信高驚きて且悅び打連れて城に入り、今日の有樣類稀なり、と云ひ合へり。其後高野の木食上人和平を取計ひ、信高城を出でけるに、程なく東照宮、伊豫の宇和島にて十萬石下し賜はりけり。
佐治縫殿は近江甲賀郡伊佐野村の人にて、父を左京といふ。秀吉の爲に城を落され流落して、縫殿九つの歲富田信高に仕へ、十四にて四百石與へられけり。津の城に籠る時十六歲、名を善大夫と云ひけり。八月二十四日京口淸嵐寺の三の丸を燒拂ひ、敵攻入りけるを防ぎ戰ひて、信高本丸に引取りたれども、分部左京亮も未來らず。家老物主も來らざれば信高天守に上り、自害せんとて物具を脫ぎ、佐治に、汝介錯せよ、と下知せられしを押留めたる處に、分部、富田五郞右衞門、同主殿、上田吉之允も二の丸に引退く體見えければ、信高上帶しめ直し、佐治を天守より使に遣られけり。大手の門、矢倉、廣間の前屏重門の左にて、毛利秀元の士紫母衣懸けたると其外五六人と、上田吉之允鎗にて渡り合ひ居たる處に行懸り、詞をかけて敵を追立つる。母衣かけたる敵大手の門潛へ引退くを追つつめ、兩人にて討取りたるを、信高天守より見られけり。後城に籠られし時、著られし甲冑と白河原毛なる馬に小鞍といへる作の鞍鐙を添へて佐治に與へらる。其明の年佐治、富田の家を出て筑前中納言秀詮に仕へ、其家滅びて黑田の家に仕へしを富田禁錮せられしが、大坂陣に後藤に招かれて士三十騎の將となり、五月六日道明寺の軍に寄手の物色を見んとて、谷川筋イ谷筋に出づる處に、東より來る物見武者に行逢ひ、卽ち討取りて冑首を得たり。是後藤が手の一番首なり。後藤が旗本敗北し、敵に押隔てられ、丸山の北、細畷にて返し合せ、敵一人討取り、冑に刀を添へ分捕しけれども冑をも棄ててけり。敵慕ひ來りければ大坂へ引取り、事叶ふまじ討死せん、とて駈出でしを、伴野次左衞門、佐竹安大夫、本多小右衞門も續きて鎗を合せんとするに、深田にて敵懸り兼ねたり。伴野、いざ是迄よ、とて佐治を捕へて引返し、道明寺と平野の間にて、眞田に行合ひて遁れ得たり。其後流落し仕へを求め、貧しくして江戶柳原の町家の裏少ばかりの所を借りて、妻と二人在りけるが、京都に赴く。妻殊に哀なる體なりしを、近隣の者共心を附けて勞り、日を送りしに、如何なる事にて京には行かれしぞ、と問ふ。池田の御家新太郞少將の祿千石賜らんとの事なれ共、二千石ならば奉公すべし、とて其爲に京へ行きたり、と答ふるを聞きて、千石ばゝと異名して嘲りたりしが、程なく從者十人許引具し、馬に乘りて煌なる士來りて、吾は佐治なり、とて妻を迎へ、近隣の者に夫々に土產し、妻を心附けたる禮を述べて、池田の家に仕ふとて去りけり。